ビフィダス牧場

サークルyogurt、ビフィダスの活動報告場です

エロ描く方のビフィダスがエンジェル倶楽部5月号(3月30日発売)でマンガを掲載させて頂くことになりました。
タイトルは「ヒカリさん開発日誌」。
2P分の増ページを頂戴して22Pです。
ヒカリさんという箱入り娘のぽっちゃり新婚主婦が、生真面目なせいでなんやかんやになるお話です。
サンプル1
サンプル

タイトルがとてもお下品なんだがこれは「タイトルあんま凝りたくない」という僕の羞恥心がそうさせたので許してください。
仕上げに手間を掛けすぎて恐ろしく難航したので「もうこの描き方はよそう」と思うくらいに頑張った作品なので
読んで頂けたら幸いです。
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宜しくお願いいたします。 
 

前回のコラムンの続きです。
前回は、創作の間口を広げ作家志望者の層を守るものとしてのコミケの話でしたが、
今回はこれに加えて、「作家や、商業業界にとってのコミケの恩恵」の話を致します。
なお、コミケに参加できる作家となると、週刊連載でクソ忙しい作家さんとかだと先ず無理なので、必然的に成年向け作家とか成年向け商業誌の話が中心となります。

まず、前に経験した話をします。
☆ちょっと感動したウスイホンのお話
前の夏コミで戦利品のスケベブックを読んでいて、そのうちの一冊に心から感心したことがある。
普通、エロ漫画というのは大体のところ「あれこれあってスケベしてスケベして終わる」という構成になっている。これは「限られたページ数で読者の性的興奮を盛り上げ性的絶頂にいざなう」という目的上、どうしようもなくそうなる。スピードを求めたF1マシンの形状が収斂していくようにそうなる。
だが、その本は、スケベの後に、スケベ後のその人の日常描写がヌルリと続いていく。ここで何が起きているのかというと、主人公である女性の心が自問自答の中でグニグニと解きほぐされて変わってしまうという過程だ。
物語として、この作品の山場は、性交そのものよりもここでの心理の変化にある。だから、本全体のクライマックスもここになる。
そして、それがまあエロい訳だ。
肉料理を食べ続けた舌と胃に中華の秘伝のスープが来たような、じんわりとした満足感と、いつまでも響く読後感があった。
……振り返ってみると、スケベ商業誌というのは内容的制約が厳しい
kibisii
それはそうだ、まず「使える」というのが必須条件となるため、まあ男性向け成年誌だと、大概、クライマックスでの挿入と射精の描写は求められる。導入の4P以内にはエロに入ってくれ、という要請もある様子だし、理解できることだ。
また、自誌の購読層に求められるものを提示せねばならないので、雑誌のカラーを大きく外れないで下さいという約束がある。うちはファンタジーはダメとか、制服女子のみとか、熟女がいいなあとか、そういうのね。
尚且つ、一部読者に拒絶的反応を与えかねない描写、つまり「地雷」を避けなければならない。スカトロはダメとか、脚切断はダメとか、あるでしょう。
コンビニで売ってるような大手スケベマンガ誌ではいよいよ一般性と安全性が求められ、例えば犯罪である援助交際描写はNGだと聞くし、黒髪女子高生か黒髪主婦ばっか求められるなんてことも小耳に挟む。(実状は知らん。私はそういう仕事のお声がかかるマンじゃないからだ。うんち。)
先日発売された超大御所先生の単行本では、そのあとがきで、コンビニ誌の内容的制約が煩わしすぎて執筆を一時期辞めてしまったという報告がされていた。こんな高名な人でこうなるのか!と、目玉が飛び出た。
そのように、商業で試せない事、つまり商業で試せない主題、話の構成、人物像、フェチズム、そういうものは沢山出てくるのである。
それを、コミケという場では、実験的に提示して世に問うことが出来るのだ。
戦利品のそのスケベブックを手にしながら、
「あ、そうか、コミケは漫画表現の多様性を拡大させる役割があるのか!」と、この時悟った。
……
これが何を意味するのか、分かりますか?
これが意味するものは大きいのだ。すごく

・漫画家は相互参照のループの中にいる
当然だが、漫画家というのは互いに漫画を読み合い、こうふんした表現やシチュエーションに感化されて、それを取り入れたり真似たりすることで表現法を獲得し、技術を磨いていく。
エポックメイキングな作家さんが出てから、その表現が一気に拡散するということは結構ある。断面図とか、アヘ顔とか、あるでしょう。絵柄とか表情一つとかでもこういう拡散はある。アニメ「けい○ん」が出てからマンガの顔の基準がスコーンと「○いおん」に変位したように思えるし、あと「あ、このひょっとこ顔、近頃よく見る」とか、そういうのもある。これは作家が自発的にやることではあるが、編集が主導して行うこともある様子だ。一部の編集さんは、新人作家に「この作家の絵柄を真似たまえ、いいね?」みたいに指示することもあるという。商業の世界は、それこそ大きなところほど冒険がしづらいようになっているので、理解できる話だ。
この相互参照のループ、実は厄介なものでもあり、これが狭い世界で相互反射し続けると、その世界が均衡化し、「新刊のスケベ漫画単行本の絵柄がどれも同じに見える」みたいなことが起きてしまう。どのページをめくっても、なんか見たことがあるものにしかぶつからない、みたいなことになる。
そうすると、地盤全体が一気に沈下して、ジャンル全体が訴求力を失ってしまう訳だ
表現というのは総じて「球がストライクゾーンに収まっていること」と「球が散ること」を同時に求めていかないと、澱んで死んでしまう世界なのだ。
そんな時、こういうコミケのような場で、実験作が出てくる。野心作、冒険作、逸脱的な作品が出てくる。しかも魅力的な作品が出てくる。
それを作家がやはり相互参照する。新しい方法論を発見し、自分の枠を一つ一つ破壊しながら、それをまた自身の商業なり同人なりの作品にフィードバックさせていく。
こうして、表現世界全体にブクブクと新しい酸素が入り、表現世界が豊かになっていき、読者としては新しい表現や新しい興奮を享受する機会が増えていくということになるのだ。
表現の多様性の拡大は、表現世界の存在強度の拡大なのである。
……ちょっと語弊があるか。こう言い換えよう。
現状、表現の多様性の拡大が、表現世界の存在強度の拡大として、働いている。
意味するところのもの、大きいでしょう?
商業誌が、様々な事情から冒険できなくても、表現したい事を持った作家が同人で冒険できる。その冒険の成果が商業に返ってくる。これは商業誌の世界にとってもありがたい事だろうと思う。
……
コミケ、ありがたいでしょう?

あと、商業作家にとってのコミケの役割について、せっかくだから付言しておくと……
・作家ってのは生きていくのが大変
エロの商業作家というのは基本そんな儲からない。例えば月刊誌で20Pを描くとする。例えば原稿料が1P8000円としよう。そうすると、一作で得られる収入は16万円だ。掲載が隔月ペースなら月収8万円だ。A君「わああすげえ儲かってるじゃん!」Bさん「そうだね。」
ボーナス無し。隔月ペースなら単行本は二年に一度のようなペースになる。
そして作家というのは、サイクルとして「絵の勉強をして技術を磨く」「作品を作って出す」「セルフプロモーションし自分の宣伝力を上げる」の三つのタスクを行うことになる(少なくとも私はそう考えてやっている)。フルに原稿で働くと、このサイクルが破綻して、作家の存在強度が落ちてしまう。
そんな訳で、技術は磨ける」しかも「宣伝になる」そんな同人誌を即売会で頒布できるというのは、金銭面のみならず、作家の存在強度を保つ為の、とてもありがたい命綱になっているという訳だ。(そんな業界構造、不健全だ!作家さんがかわいそう!と憤慨される方もいらっしゃるかもしれないが、「不健全である代わりに元気もあるのだ」と言い換えてみたい。健全化させてコミケを廃止したら、多分みんな漫画家を維持できなくなってやめていくだろう。「白河の 清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」ってあったよね。)

……こんな訳で、コミケというのは、
1、作家の表現力の拡張に寄与し、
2、それが巡り巡って商業誌の世界含めた表現文化全体の活性化にも寄与し、
3、あとは商業だけでは支えきれない作家の人生を支え、結果として作家の数と作品多様性を増やしている

という役割を担っている訳なのである。
こうまとめてみると、すげえな!!

……
・「表現の自由を守る」の中身
表現の自由という言葉がある。この言葉、私自身はあまり説得力を感じていない。
表現が攻撃や中傷に使われることなんてのはよくあることだし、脅迫的表現は自由なのか、とか、まあ細かい問題は当然出てきてしまう。「○○の自由」というのは「それに付帯する社会的責任」ありきの話なのに、社会的責任までもが「自由」の名の下に免除される傾向もある。(前に騒がれた、「無責任な報道は電波停止してもいいんじゃね」に対する「報道の自由の侵害だ!」という反発とかね。)
社会が上手く回ることと「表現の自由」とが衝突する事はある。そしてその際に「表現の自由」というのはしばしば自発的に折れていくものであるし、今までもさんざ折れてきた。親戚一同の前で「ちんこまんこ」とか言い出して「表現の自由だ!」とか言う子供が出てきては社会は成り立たないのだから仕方ない。
だから、「表現の自由を守る」 という言葉は、「反社会的!けしからん!」という声に対しては、騒がしい教室に対する委員長のように、か弱い……ように思えてならないのである。
……
だが、それの意味するところが「表現の多様性を守る」であるとなると、話は変わってくる。「好き勝手させろ!」という自由を守りたいというよりは、「色々描きたいし読みたい!」という多様性を守りたいのだ。
「表現文化の豊かさを守る」 となると、更に良い具合になってくる。豊かな表現文化が現状、人の心に安らぎや快楽を与えつつ、更には巨大な産業になり経済効果を産み、そういう意味で社会に貢献している訳だから、これは守りたいところだ。というより、これを守りたいのだ。
そして、漫画に関しては、表現の多様性を守ることが、表現文化の豊かさと強さを守ることに「今のところ、繋がってる」
(繋がらなくなったら、その時また文化を活性化する為の手立てを講じることになる訳です。ちなみに、多様性が業界の健全性を破壊した例はある。アタリショック。)
そんな訳で、「自由」とか「権利」とかいう観点でなく、「社会の中に位置づけられ、皆の人生を潤し、経済を回す豊かさを生むもの」という視点から、表現というものについて考えてみるのも面白いかもしれない。
そう思う。 

TPP云々の調停の中、日本の議員さんや漫画家先生や様々な方々の地道な活動のおかげで、
日本の同人文化が、この二次創作が多くを占めつつ巨大な市場となっているこの現在の同人文化が、一まとめにしてしまえばコミケが、上手く守られる事になった様子だ。
よく「歴史ってのは、どう転んでもどうにかなるものである、弁証法的サムシングで、こう、うまくいく摂理なのだ」みたいな意見をみかけるが、これはこの世の最大誤謬の一つだと思う。
物凄く頑張ってくれたその人がいなかったら、歴史が変わっててみんながガクッと不幸になってたってことは、あるよ。
感謝しかない。
そして、この巨大なバトンを、各々の仕方で支えながら長く引き継いで行きたいものだ。 こういうのは油断した瞬間にまた危機に晒されるものじゃからのう。
……
さて、かく言う私はコミケ参加歴はそんなに長くないが、コミケに様々な仕方で巨大な恩恵を受けた人間の一人であり、
また、創作活動とか漫画文化とかにコミケがめちゃくちゃ色々寄与している、ということが、漫画を描く中で、またコミケに参加する中であれこれ思い当たるので、
これを機会に、この寄与なり恩恵なりというものを、少しまとめてみようと思う訳です。
お付き合い願えれば幸いです。
==
☆「漫画を描いていく」って、たいへん
振り返るに、「漫画を描きたい!」とか「漫画家になりたい!」という人がいたとして、その人がやることというのは
1、趣味でシコシコ描く 2、なんか自信が出てくる 3、編集部に持ち込みに行く為にシコシコ描く 4、編集者にあれこれ言われて、「この人の言ってることマジかいな」とか「ここはボクのコダワリなのにぃ!」とか思いながら直す 5、「○○賞に出してみようか、それまでにこれこれ直しておいて」「アッハイ」みたいなフニャフニャしたやりとりをする 6、賞の結果が出る 7、「じゃあ次の段階行こうか、連載目指してネーム作っていこう」「アッハイ」みたいなフニャフニャしたやりとりをする 8、「ごめんね企画通らなかったよ」「うんち!」みたいなやりとりをする
まあ大体こういう流れになると思うのだが、こう見てみると、恐ろしい作業であることに気づく。
・読者が担当編集さん一人しかいない
・仲間が出来る機会がどこにもない
(・お金を貰えてない)←大問題なんだが、まあ一旦カッコに入れておく
……ね?今こうして文章にしているだけで「これ宇宙空間に単身小船で漕ぎ出すような所業じゃないだろうか」と思ってしまった。
それくらい、よすががない。
今の時代になると、トゥイッターとかピクシブとかいったSNSがあって、そこで作品発表を行うことが出来るっちゃ出来る。
だが、今、SNSでオリジナルの、なんかよく分からない、ゆかりのない作品をポイッと出して、目に留まる確率というものを考えてみると、既に絶望的な気がしてくる。悲しいかな、世界というものは自分の存在に対して、自分が期待しているほど興味も好意も持ってくれないのである。いっそ内輪で友達に読ませるほうがよさそうだ。
そうすると、二次創作というものが、創作を始めるにあたって如何に「恵まれた」ものであるかが分かる。

☆二次創作のいいところ
・まずそもそも、人間が漫画含め表現を好きになるときというのは、他の作品を好きになることから始まる。98%ここからだ。その時点で、二次創作には「ナチュラルな動機」がある。(これ、『作品はオリジナルこそ、二次創作など邪道、こころがけがれている』と思っている人にとって割と盲点になっている気がするんだな。かくいう私も、今こうして書いてて初めて気づいた。)
・二次創作は、絶対に、多くの人が読んでくれる。しかも、その作品のファンが。好意的な読者にすぐ出会える。これはでかい。
・好意的な仲間にすぐ出会えるのと同様に、好意的な「創作者」にすぐ出会える。作家仲間が出来る。これもでかい。
・既にキャラクターやバックグラウンドが出来上がって共有されている状態から自分で話を作っていくことが出来るので、創作活動がし易い。生きた鶏をさばくことから始めようとして料理に挫折するよりは、スーパーで鶏肉のパックを買ってきて調理して人に振舞って料理を楽しむ方が、「楽しむ」という点で、良い。「苦しい部分をすっ飛ばせる」のが、良い。
・「そのキャラらしさとは何か」ということに、否が応でも真剣に向き合う契機が得られる。この過程、「自分でキャラクターを作り、考え、動かす」際に、凄まじく役に立つ。自分の脳内でこしらえたリソウテキな人物像をいじくりまわしていると視野狭窄になる、なんてのは、陥りがちな話だ。(死にたくなってきた。)
…まあ枚挙にいとまがないが、二次創作からストーリーテリングを始めるというのは、様々な利点があるという訳なのだ。
創作が好きになっていくような、創作を続けていけるような、そういう利点が
巨大な利点だ
(無論デメリットもあって、二次創作でブイブイ言わせていた人が、オリジナルとなると途端に精彩を失う、なんてこともよくある話のようだ。キャラを作るとか舞台設定を作るとかいったことをオザナリにしてしまう、というのは一つの弊害なのだろう。だが、『一から創作するのに苦労して、楽しめない』という最悪のデメリットと比較してしまうと、こんなこたぁ小さな事柄に思える。
……
さて、こういう見解が持ち上がる。
読んで貰いたいだけならネットで無償公開すりゃよかろう」。尤もな気がする。「おぜぜを稼ぐとは浅ましい」。そんな気がする。
が、漫画を描く側の立場からすると、「即売会に出て、金を取って本を売る」というのには固有の重みが生じるものなのである。

☆コミケのいいところ
先述したように、「シコシコ作品描いて、編集部に持ち込みに行く」というサイクルには、「お金のやり取りを発生させる」という契機が絶望的に生じないのであるが、即売会ではこれが得られる得られる!すごいことだと思うぜ僕は。そう思わないか!?
これは、「お金が儲かってウハウハ」とかいうことじゃなくて(実際サークルの大半は儲からないと聞く)、
作品を世に出すことで世界に貢献し自分の未来を繋げていくというライフスタイル」に対する一定の予行演習というか、シミュレーションになるのである。(これをデビュー前にさせてくれる編集部は多分この世に存在せん。
それの何がどう、意味があるのか。次にゾロッと列挙していきましょう。
・「お金を払わせて作品を手に取ってもらう」ことのプレッシャーと責任感。これが創作に与える影響はでかい。0と1くらいでかい。重みが全く変わってくる。創作に向けた姿勢も当然変わってくる。
・「自分が描きたい漫画を描いてぶん投げる」という意識が、「人に読まれることを意識して漫画を整える」という方向に向く。……こういうことは、持ち込みの場合は編集者さんが全て事細かに指摘してくれることではあるのだが、これを実地の読者相手に出来るというのは大きい。というか、実地の経験があってこそ、編集さんのアドバイスはバリバリに刺さってくるのである実地の経験がない人に編集さんがアドバイスしたってピンと来ないに決まってる。「作品を世に問う経験値」が足りてないから!(文章書いてて、自分で今気づいた。)
・自作品をプロモーションする意識が生まれる。これ、でかい。当たり前だがイベント前となればより多くの人に作品を知ってもらいたいので、自分の存在とか自分の作品の個性だとかを世にプロモートせねばならない。知られていない作品は読まれない。よすがのない作品は手に取られない。だから、作品が溢れ返る海の中で、自分の作品にどうにかして興味を持ってもらわねばならない。その為に、多くのサークルが知恵を振り絞り、日々分析したりしながら本を作っている訳なのだ。興味を持ってもらえるように内容を練り、外面を練り、広報を練る。……考えたらこれ、広告業とか広報とかが死に物狂いでやっていることだ。そして……これ、実は漫画家志望者が持ち込みに行った時に、編集さんや出版社が肩代わりしてくれている事柄なんじゃないかと思い始めてきた。「この作品はこうすればもっと人の心を掴むんじゃないか」「もっと分かり易くなるんじゃないか」「もっと作品世界が広がるんじゃないか、連載を長期化できるんじゃないか」という提案をしていくのが編集者のお仕事だからだ。コミケで本を出すということは、編集さんの気苦労を追体験するということでもあるのかもなあ。作家にとって、とってもいい経験値な気がする。
・上項の一環だが、表紙デザイン等を考えるという機会が得られる。……これ、持ち込みではありえない事柄。ロゴとか宣伝文句とかも自分で考えていく。色々なデザインを見て学びながら吸収するという脳の働かせ方をしていく。こういう分析、私は先日の冬コミで初めてやった。多くの作家さんのアドバイスの元に、データを漁りまくり試行錯誤しまくるということをやったのだ。恐ろしく勉強になったし、なんというか鍋を振るう事しか頭になかった人間が、料理の盛り付け方を知って驚くというような、そういう世界の開けがあった。色んな方面で役に立つかもね。
・編集さんの目に留まってスカウトされたりする。あるあるー。許せねえ。
・お金が得られれば、次の創作につなげられる。当たり前だが重要なことだ。お金は血液。少なければ倒れるし、尽きれば死ぬ。これも、改めて言われないと気づかれにくいことなのだなあ。
……
こんな風にゾロッと挙げてみたが、この「作品を世に問うて生きる為のプチ予行演習の巨大な場」というコミケの役割、そしてそれが作品のクオリティと、作者のセルフマネジメントぢからに与えるプラスの影響力、これはもっとずっとずっと強調されていい気がする。
……
「創作」というめんどくさい営為の間口を広げ、創作の楽しみを増やしていく、二次創作文化という巨大な土壌
そして、「ただ漫画を描くことから、漫画を世に問うことへと意識を橋渡ししていく実地訓練場」としてのコミケという巨大な土壌。
こういう土壌が、この日本というミョーチキリンな文化大国、何故か知らないが漫画やアニメを世界に出しまくっているこの日本という国における、「漫画作品を作る担い手の量」と「質」をかなり大きな仕方で担保している……私はそう感じている。
少なくとも、「コミケ禁止です!ハイ!」となったときに、この、肥沃すぎるほど肥沃な、コンテンツ製作者予備軍の層が、ゴッソリ失われるというのは想像に難くない。
(あー、漫画文化が、「いかがわしい、けしからんもの」から「金を稼げる世界的文化事業」へと立ち位置をスライドさせていったからこそ、コミケやら何やらが存続したって面はあるのだろうなあ。)

コミケ、結構ものすごく大切に思えるわけなのさ。
さて、このほかにも、コミケが漫画表現文化に寄与するものはあるのだけれど、今日は疲れたので、続編にて紹介します。 

続きはこちら。 

先日のコラムで私が自分の年齢を21歳と述べたところ、一部の方にショックを与えてしまった様子なのですが、
実際のところ私はもうちょっと年寄りで、17歳だ。
毎日ラジオ体操や筋トレをしているのは、それをやらないと身体のコンディションを維持出来ないからだ。
様々な余暇や趣味を犠牲にして進んだ本業において挫折し、敗北者としての未来しか見えなくなった。
夜、寝床で暗黒の天井を見上げながら、
このまま何者にもなれず何も生み出せずに死ぬのか、せっかくこの世に生を受けて、このザマか」と絶望的な気分になる、そんな日々を過ごしてきた。
そういう時に、丁度『エンジェル倶楽部』誌の編集さんからスカウトがかかり(コミケに出してた同人誌を目に留めて貰えて)、漫画を描くという人生を得たのだ。 
漫画を雑誌媒体に載せるというのは長年の夢の一つであっただけに、可能な限りしがみついていきたい。
……
さて、絵を描く人について回るトラウマワードの一つが「年齢」です。
「こんな上手い絵を描く人が学生?死のう」とか、そういう思いに囚われる人は多くいることでしょう。 
目指すところが漫画家なりイラストレーターなりという職業であれば、なおさら「年齢」というのは重大事に思える。
ような気がする。
だが、それは本当なのだろうか。それは巨大なマヤカシかもしれない。今回はそういうコラムです。
==
●「この人こんな若いのか!」と知ったとき、我々は一体何に劣等感を感じるのか。
これを振り返ってみることは重要だ。そして、その内実をいざ見てみると、実は大方こういうところなのではないだろうか。
・若いくせに絵が上手い

・若いのに絵に熱中して携わってきて、様々な画風やモチーフを吸収し、技能を磨いているというのが羨ましいしスゴイ
この辺りなのだ。
※「才能」のことは放っておこう。才能という言葉、多義的過ぎる。持って生まれた観察眼。手先の器用さ。視覚情報を指先から出力する際のスムーズさ。好きなものに熱中できる力。努力を成果に還元する際の時間効率。それを許容する生活環境。育成環境に存したモチーフの質。……「才能」には様々なものが含まれすぎているし、その一つ一つの要素を見ていけば、様々な対抗策、代替策、迂回案は提示できるものだ。そして、並外れた才能の持ち主、「天才」には、そもそも勝てないから気にするだけ無駄である。
……振り返ってみると、「若い人」には「絵に熱中できる時間」がある。学生時代なんてのは落書きの時間が山ほどあるからだ。
その熱中から、技術的成果を出して、それを若い段階で世に出せて、名声を得ている。この辺りが、羨ましさの中身なのではないかと思う。
一方、年寄り側が総じて欠いているのは「熱中と時間」だ。熱中したくても生活に追われて思うように時間が取れない。そもそも熱中できない。時間を上手く活用できない。今からじゃ追いつけない気がする
だが、この辺りの問題、つまり「熱中と時間」の問題は、年齢に関わる話じゃあないのだ。この問題は若い人をも等しく悩ませているし、そして、生活サイクルやモチベーションのマネジメントを自覚的にやれば、いい歳の大人でも一定の仕方で確保できるものだ。
(このマネジメントすら出来ないぞバカヤロー、という人は、多分理不尽なまでに不遇の生活状態にあるので、絵とか言ってる場合じゃない。役所とか行くべき。
熱中と時間。これを大人になって確保する。
その場合、やるべきことは……大体こんなところだろう。4つ挙げる。

1・自分が好きなものに取り組む意志を明確化する。
趣味など無意味、愛好などいずれ冷める」とか思っちゃわない。理由。内的動機という内燃機関さえあれば人間は早々モチベーションを失わないから。エヴァでいうS2機関。これがないと、「周囲から好意的反応が得られない、ちくしょー乗り換えだー目立ちてー」とかなって右往左往して作風がグチャグチャになって一発逆転に頼ろうとしてアースクエイクのビッグカラテを食らって爆発四散したり、やる気の電池切れを起こして立ち往生したりする。
内的動機があれば、堂々と一千発のスリケンを投げ続けることが出来る。
絵一枚では何にもならなくても、積み上げられた20の作品は「ポートフォリオ」になり、更に積み上げられた100の作品は「コンテンツ」になる。最近身にしみて分かったことだが、量は質になる

2・生活環境の見直し。
事柄に優先順位をつけ、無駄な時間をなるべく減らして、好きな事に携わる時間を作る。絵筆を執る時間も。疲労を減らす為に身体のケアをしたり(ラジオ体操とか)食生活を見直すとかも重要(濃いラーメン食べないとかエナドリ飲まないとか、昼飯を豆腐にすると午後も眠くならないとか、そういうのね)。あと、作業環境を整備して姿勢とか良くして疲労を減らすとか、家族の理解を取り付けるとかいったことも、とても重要なこと。

3・モチベーション環境の見直し。
絵を描き続けるには適切なモチベーション環境を構築して改善していくことが重要だ。イラストSNSに絵をアップした時に多くの人に見てもらえて喜んでもらえるとモチベが上がったりするでしょう。そういうのだ。例えばネカマになって、オシャンティなカフェの写真と、ひじまんこ(ひじを寄せて皺を作ってそれをクローズアップして写真に撮るとそれらしく見える)の写真とかを上げつつ「練習中ですー」とイラストを上げたら多くの人に見てもらえて応援してもらえる気がする。
あと、そうやって作品を公開していけば、尊敬すべき作家であるとか、競い合える作家仲間とかが自然と生まれてくる。そのつながりの中で、自分のモチベーションを増進できるように環境をまた整えていく。「この人と繋がってると精神が不味い」と思ったら距離を置く、とかも含めて。

4・効率的に成長するメソッドの確保。
モチベーション維持の一環だが、ダラダラ練習するより効率的に練習したいものだ。じゃあ何をするのかというと、絵が上手くなる方法というのは「絵筆を執って、背伸びして、惚れたものをあちこち吸収しまくる」ってことに集約される気がする。これをやるには精神の統一が不可避で、ちょっとでも我執とか自尊心とかがあると、すぐこれが出来なくなる。私はこれが凄まじく苦手で、この我執のせいで多くの時間を不意にしたという自覚がある。でもまだ苦手。理想の絵描きへの道は遠いのう婆さんや。

……こういうことなのだと思う。
こういう事柄は、重ねて言うが年齢とは特に関係ない。若い人でも、これが整わなければ苦労をするし、そうやって挫折して行くのだと思う。そして、その道のベテランのような人であっても、ずっと悩んでいる問題なのだ。だから安心して悩んでいい気がする。問われる事は本人の精神的資質のみだと思う。

●「でも、歳を取ってると実際色々不利なんじゃ?」という疑問に対して。
ケース1:趣味で絵を描いてインターネットお絵かきマンになる場合…
年齢なんぞ誰も気にしない。SNSに年齢を正直に書いてる人、いないじゃん!(本田未央ボイス)
ケース2:お仕事を受ける時には……?
今の時代、ツイッターやピクシブといったSNSで目立つ絵描きさんにはサラッとお仕事の依頼が来るものだ
だから、そういうお仕事なら年齢とかあんま関係ないと思う。
スカウトする側は「その人の作品が価値になる」と思ってスカウトしているのであるから、年齢とかあんま興味あるまい。
只でさえ行く先の不透明なエンターテインメントの世界、「何か新しい作品、何か他と違う作品が欲しくて欲しくて仕方がない」この世界において、生産者の年齢を気にするなんてのはクソデカイ週刊少年誌とかそれくらいの、ほっといても新しい才能が山ほど集まっては散っていくような一握りの世界だろうと思う。
ケース3:商業連載とかは?
私は雑誌を売る側にいたことがないので、あくまで「読み手側」の話しか出来ないが……

前に、知人の作家さんとこういう話をした。
私「雑誌が作家を誌面に載せたいという時、年齢とか関係なくないですかね」
作家さん「いや、あると思いますよ」
私「面白ければ何でもよくないですか?」
作家さん「考えて見ましょう。同程度の作品が二つあって、一方が『20です、元気いっぱいです』って人で、一方が『30です、人生かかってます』って人だったら、貴方が編集だとしたらどっちを取りたいですか?」
私「フゥーム」
作家さん「但し、『一定以上の社会経験がないと生み出せない作品』というのはありますよね」
私「ハイハイ、業界話とか人生話とかそういう」
作家さん「ナニワ金融道とか。そういう作品はとても価値があるでしょう」
……
こういう話を聞いていると、こういう考えが首をもたげてくる。
歳を食っているということは、武器に出来るのではないか?
20歳と30歳で同じ作品を描いていたらそりゃ20歳の方がいいかもしれないが、
つまりは違う作品を描けばいいのだ。違う存在であればいいのだ。それで価値を提示できれば。
折角だから、ちょっと思い当たる節を挙げてみよう。

●年寄りの良い事
・社会経験がある。それに基づいた、ミョーなリアリティのある作品を生み出せる。社会の事柄しかり、自分の事柄しかり。
・社会経験や自身の経験、広い見聞に基づき、中長期的セルフマネンジメントが出来る。
・広い人生経験に基づいて作風を管理したり作風を散らすといった作品マネジメントが出来る。
・細かい思い入れが減る。思い入れがありすぎて作品を逆に生み出せなくなる傾向、というのはよくある。歳を食うと、もはや「絶対に描きたい主人公」とかの思い入れがなくなってくるので、クールに分析してキャラを作る事ができる。
・社会的作法が分かっているので、編集さんとかと仲良く、正しく、仕事が出来る。そういう人付き合いで精神を消耗したり人生に悲観したりすることがない。若い作家さんだと結構あることらしい。
……暫定的に列挙したが、こういうことも、実のところは「年齢に関わる話」じゃあない。若くても、本とか読んだり様々な人生洞察を得て、しみじみした作品を作る人はいる。(先日話題になった、芸人を挫折した28歳のアイドルオタクが再帰する話とか、作者の中島祐さんはwebの記載では23歳だ。)それに、歳をとってもセルフマネジメントが出来ない人というのはいる。やっぱり年齢の問題じゃあない。

●年寄りの問題点
・体力が減る。健康が減る。これは不味い。……でも、若い人でも不味いものは不味い。早逝した作家さんの数を考えてみればわかることだ。
・生活環境が、漫画を描くことを許さなくなる。これはさもありなんという話だなあ。よく、「デビューを志望しながらも作品を作れずにアシスタントを続けている内、作家や周囲の優秀アシに自分より若い人が増えてきて、段々と静かにその世界から足を洗っていくケース」なんて話は耳にする。……しかしこれも、問題は「年齢」じゃなくて「当人の作品製作能力と、年齢をヘンに気にするメンタル」が問題という気がする。
・新しさが無い、絵柄が古くなる。作品を発表しないまま歳を食うと、我執が強くなるので、こういうパターンに陥るのはさもありなんという話だ。……だが、これもつまりは「作家の勉強ぢから、吸収ぢから」の問題だ。ベテランでありながら絵柄を最新のものへと更新し続けて最前線を走る先生は、現にいる。高校生の頃から我執に囚われて「自分の絵を手放したくない」とかやってるうちに鬱屈する子、なんてのも、いる。
・新しい事柄に、興味関心を持てない。これはキツい!キツい。新しいアニメを見ない。ラノベの表紙が全部同じに見える。最新のゲームを追いかける気力がない。『ぼのぼの』に出てくるアライグマのオヤジのようなものだ。全てが同じ景色に見えてしまうのだ。だが……興味関心を持つというのは、自分の心に問いかければ自然と出てくるものだし(私にだって好きな作品はあるし、ボルチオエステサロンとか好きだ)、そもそも「全てに飽きた立場から提示できる価値」みたいなものは、ある気がするのだ。気がするだけだが。
勉強しない。上の問題と連動して、この傾向は不可避のように思える。……だが、勉強しないと死ぬのはどの年齢でも同じだ。若い作家さんが輝いているのは若いのに勉強しているからだ。一方、歳をとっているのに勉強を絶やさずに魅力的な絵を描き続けている人は身近に沢山、沢山いる。輝いている。つまり、輝きの源は勉強ぢからにあるのだ。若さじゃない。

……考えれば考えるほど、年齢の問題は本質的でないように思えてくる。

また、こういう視点もとれる。

●若い人の問題点
若い人ほど、実は更に他人の若さを気にする。これは先日、クッソ若い作家さんとさぎょいぷして知ったこと。考えてみればそうだ。学生の頃って、1つの学年差が絶対的な意味を持ってたもん。わかるわかりティ。そして、ソレを気にしすぎて自分から潰れていく、なんても、ありそうな話だ。一方、社会人になったら10歳20歳の差とか別に気にならん。興味があるのはその人の魅力だけだ。
・若い人には多くの可能性がぶらさがっているだけに辛い。これもよくある。歳を食うと、欲望が捨てられていった結果、やりたいことだけやる、みたいな鋭さを見せるケースもある。
・若いので社会知がなく、結果として人生を見誤ったり、メチャクチャな仕事をあてがわれて憤死したり、クソみたいな担当さんにムチャを言われて情熱を失う、なんてケースも、聞く。悲しい話だ。
・若いうちに専門特化すると、人生のツブシが効かなくなる。ああああ辛い。だが、人生のツブシの問題は年寄りにもあるか。ヒエー!
これ以上こういう暗い話はやめよう。 
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●問われるのは、「今」だけなのかもしれん。
とある作家先生がトゥイットしていたことを覚えている。
「絵と年齢の問題に関しては、実は『今その人が何を描けるのか』だけが問題なんじゃないだろうか」
結局はそこなのだ。
だって、高年齢でも若々しく魅力的な絵を描いてどんどん成長している人が現にいるんだから。
じゃあ、その「今その人が何を描けるのか」の「今」とはいつなのか、と考えると
「最新作」
ではなく
次回作、次に、ちょっと背伸びして新しい事に挑みながら絵を描く時の、そのタイミング」なのだろう。
こう定式化すると、自分に刺さる。こんな文章書くんじゃなかった。
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●マジックナンバー35
マジックナンバー35というのがある。「夢を追いかけていた男が、35歳になると夢を追うことを諦め、その結果として人生が無重力の闇に転げ落ちる」。そういう現象だ。
30代半ばの男性が特殊な犯罪を犯すケース、多いだろう。脅迫とか通り魔とか。あれだ。
だが……案外、そんな悲観したものじゃないのかもしれない。そう信じたい。

 

ギャグ描くほうのビフィダスAよりお知らせです。
ご好評いただいている『伊勢日向まんが総集編』は1、2、3が出ているのですが、
この度、メロンブックスさんの方で全巻とも在庫がほぼ底をついていることが判明したので
(伊勢日向まんがは、メロンさんととらのあなさんに委託しているのですが、メロンさんで何故か異様に売れている)
事のついでに再版し再納品する事に致しました。
いせひゅ集合
伊勢と日向というのは「艦これ」(日本の軍艦を擬人化した人気ゲーム)に出てくる、強い力を持った姉妹で、
伊勢(右側の、目がくりっとした方)はみんなをとりまとめて引っ張っていく明るい姉貴分、
日向(左側の、目が細い方)は遠くから姉や鎮守府の面々を支えていくクールな妹です。
総集編集合
通販サイトはこちら。
メロンブックス様 1→https://goo.gl/hd7YNR  2→https://goo.gl/IFP9ee  3→http://goo.gl/APDpOV 
とらのあな様 1→http://goo.gl/I50JBf 2→http://goo.gl/tkdXjc 3→http://goo.gl/wsQRbi
1,2に関しましては、「もう再版しないでおこう」とか思っていたのですが、
もうちょっとだけ刷るんじゃよ。
これを機会に、よろしければどうぞ。

折角なので……
伊勢と日向がどういう人物で、この本がどういうものなのかを少しばかり紹介致します。

伊勢と日向は、大変面倒見がよくて、とても良識的な活躍をしたりする。強い。
伊勢日向
伊勢ちゃんは料理とか出来る乙女な子だし、あと伊勢も日向もとっても社交性がある。
伊勢日向2
お色気もある。伊勢と日向はわりと普段から身体を重ねている。でも全年齢向けの本だからお子様にも安心だ!
伊勢日向3
伊勢と日向は良い姉妹なのだ。
他にも、さまざまな艦娘が出てきて、伊勢日向と絡んだり絡まなかったりする。
重ねて、伊勢日向まんが総集編1,2,3、よろしくおねがいします。

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