TPP云々の調停の中、日本の議員さんや漫画家先生や様々な方々の地道な活動のおかげで、
日本の同人文化が、この二次創作が多くを占めつつ巨大な市場となっているこの現在の同人文化が、一まとめにしてしまえばコミケが、上手く守られる事になった様子だ。
よく「歴史ってのは、どう転んでもどうにかなるものである、弁証法的サムシングで、こう、うまくいく摂理なのだ」みたいな意見をみかけるが、これはこの世の最大誤謬の一つだと思う。
物凄く頑張ってくれたその人がいなかったら、歴史が変わっててみんながガクッと不幸になってたってことは、あるよ。
感謝しかない。
そして、この巨大なバトンを、各々の仕方で支えながら長く引き継いで行きたいものだ。 こういうのは油断した瞬間にまた危機に晒されるものじゃからのう。
……
さて、かく言う私はコミケ参加歴はそんなに長くないが、コミケに様々な仕方で巨大な恩恵を受けた人間の一人であり、
また、創作活動とか漫画文化とかにコミケがめちゃくちゃ色々寄与している、ということが、漫画を描く中で、またコミケに参加する中であれこれ思い当たるので、
これを機会に、この寄与なり恩恵なりというものを、少しまとめてみようと思う訳です。
お付き合い願えれば幸いです。
==
☆「漫画を描いていく」って、たいへん
振り返るに、「漫画を描きたい!」とか「漫画家になりたい!」という人がいたとして、その人がやることというのは
1、趣味でシコシコ描く 2、なんか自信が出てくる 3、編集部に持ち込みに行く為にシコシコ描く 4、編集者にあれこれ言われて、「この人の言ってることマジかいな」とか「ここはボクのコダワリなのにぃ!」とか思いながら直す 5、「○○賞に出してみようか、それまでにこれこれ直しておいて」「アッハイ」みたいなフニャフニャしたやりとりをする 6、賞の結果が出る 7、「じゃあ次の段階行こうか、連載目指してネーム作っていこう」「アッハイ」みたいなフニャフニャしたやりとりをする 8、「ごめんね企画通らなかったよ」「うんち!」みたいなやりとりをする
まあ大体こういう流れになると思うのだが、こう見てみると、恐ろしい作業であることに気づく。
・読者が担当編集さん一人しかいない
・仲間が出来る機会がどこにもない
(・お金を貰えてない)←大問題なんだが、まあ一旦カッコに入れておく
……ね?今こうして文章にしているだけで「これ宇宙空間に単身小船で漕ぎ出すような所業じゃないだろうか」と思ってしまった。
それくらい、よすががない。
今の時代になると、トゥイッターとかピクシブとかいったSNSがあって、そこで作品発表を行うことが出来るっちゃ出来る。
だが、今、SNSでオリジナルの、なんかよく分からない、ゆかりのない作品をポイッと出して、目に留まる確率というものを考えてみると、既に絶望的な気がしてくる。悲しいかな、世界というものは自分の存在に対して、自分が期待しているほど興味も好意も持ってくれないのである。いっそ内輪で友達に読ませるほうがよさそうだ。
そうすると、二次創作というものが、創作を始めるにあたって如何に「恵まれた」ものであるかが分かる。

☆二次創作のいいところ
・まずそもそも、人間が漫画含め表現を好きになるときというのは、他の作品を好きになることから始まる。98%ここからだ。その時点で、二次創作には「ナチュラルな動機」がある。(これ、『作品はオリジナルこそ、二次創作など邪道、こころがけがれている』と思っている人にとって割と盲点になっている気がするんだな。かくいう私も、今こうして書いてて初めて気づいた。)
・二次創作は、絶対に、多くの人が読んでくれる。しかも、その作品のファンが。好意的な読者にすぐ出会える。これはでかい。
・好意的な仲間にすぐ出会えるのと同様に、好意的な「創作者」にすぐ出会える。作家仲間が出来る。これもでかい。
・既にキャラクターやバックグラウンドが出来上がって共有されている状態から自分で話を作っていくことが出来るので、創作活動がし易い。生きた鶏をさばくことから始めようとして料理に挫折するよりは、スーパーで鶏肉のパックを買ってきて調理して人に振舞って料理を楽しむ方が、「楽しむ」という点で、良い。「苦しい部分をすっ飛ばせる」のが、良い。
・「そのキャラらしさとは何か」ということに、否が応でも真剣に向き合う契機が得られる。この過程、「自分でキャラクターを作り、考え、動かす」際に、凄まじく役に立つ。自分の脳内でこしらえたリソウテキな人物像をいじくりまわしていると視野狭窄になる、なんてのは、陥りがちな話だ。(死にたくなってきた。)
…まあ枚挙にいとまがないが、二次創作からストーリーテリングを始めるというのは、様々な利点があるという訳なのだ。
創作が好きになっていくような、創作を続けていけるような、そういう利点が
巨大な利点だ
(無論デメリットもあって、二次創作でブイブイ言わせていた人が、オリジナルとなると途端に精彩を失う、なんてこともよくある話のようだ。キャラを作るとか舞台設定を作るとかいったことをオザナリにしてしまう、というのは一つの弊害なのだろう。だが、『一から創作するのに苦労して、楽しめない』という最悪のデメリットと比較してしまうと、こんなこたぁ小さな事柄に思える。
……
さて、こういう見解が持ち上がる。
読んで貰いたいだけならネットで無償公開すりゃよかろう」。尤もな気がする。「おぜぜを稼ぐとは浅ましい」。そんな気がする。
が、漫画を描く側の立場からすると、「即売会に出て、金を取って本を売る」というのには固有の重みが生じるものなのである。

☆コミケのいいところ
先述したように、「シコシコ作品描いて、編集部に持ち込みに行く」というサイクルには、「お金のやり取りを発生させる」という契機が絶望的に生じないのであるが、即売会ではこれが得られる得られる!すごいことだと思うぜ僕は。そう思わないか!?
これは、「お金が儲かってウハウハ」とかいうことじゃなくて(実際サークルの大半は儲からないと聞く)、
作品を世に出すことで世界に貢献し自分の未来を繋げていくというライフスタイル」に対する一定の予行演習というか、シミュレーションになるのである。(これをデビュー前にさせてくれる編集部は多分この世に存在せん。
それの何がどう、意味があるのか。次にゾロッと列挙していきましょう。
・「お金を払わせて作品を手に取ってもらう」ことのプレッシャーと責任感。これが創作に与える影響はでかい。0と1くらいでかい。重みが全く変わってくる。創作に向けた姿勢も当然変わってくる。
・「自分が描きたい漫画を描いてぶん投げる」という意識が、「人に読まれることを意識して漫画を整える」という方向に向く。……こういうことは、持ち込みの場合は編集者さんが全て事細かに指摘してくれることではあるのだが、これを実地の読者相手に出来るというのは大きい。というか、実地の経験があってこそ、編集さんのアドバイスはバリバリに刺さってくるのである実地の経験がない人に編集さんがアドバイスしたってピンと来ないに決まってる。「作品を世に問う経験値」が足りてないから!(文章書いてて、自分で今気づいた。)
・自作品をプロモーションする意識が生まれる。これ、でかい。当たり前だがイベント前となればより多くの人に作品を知ってもらいたいので、自分の存在とか自分の作品の個性だとかを世にプロモートせねばならない。知られていない作品は読まれない。よすがのない作品は手に取られない。だから、作品が溢れ返る海の中で、自分の作品にどうにかして興味を持ってもらわねばならない。その為に、多くのサークルが知恵を振り絞り、日々分析したりしながら本を作っている訳なのだ。興味を持ってもらえるように内容を練り、外面を練り、広報を練る。……考えたらこれ、広告業とか広報とかが死に物狂いでやっていることだ。そして……これ、実は漫画家志望者が持ち込みに行った時に、編集さんや出版社が肩代わりしてくれている事柄なんじゃないかと思い始めてきた。「この作品はこうすればもっと人の心を掴むんじゃないか」「もっと分かり易くなるんじゃないか」「もっと作品世界が広がるんじゃないか、連載を長期化できるんじゃないか」という提案をしていくのが編集者のお仕事だからだ。コミケで本を出すということは、編集さんの気苦労を追体験するということでもあるのかもなあ。作家にとって、とってもいい経験値な気がする。
・上項の一環だが、表紙デザイン等を考えるという機会が得られる。……これ、持ち込みではありえない事柄。ロゴとか宣伝文句とかも自分で考えていく。色々なデザインを見て学びながら吸収するという脳の働かせ方をしていく。こういう分析、私は先日の冬コミで初めてやった。多くの作家さんのアドバイスの元に、データを漁りまくり試行錯誤しまくるということをやったのだ。恐ろしく勉強になったし、なんというか鍋を振るう事しか頭になかった人間が、料理の盛り付け方を知って驚くというような、そういう世界の開けがあった。色んな方面で役に立つかもね。
・編集さんの目に留まってスカウトされたりする。あるあるー。許せねえ。
・お金が得られれば、次の創作につなげられる。当たり前だが重要なことだ。お金は血液。少なければ倒れるし、尽きれば死ぬ。これも、改めて言われないと気づかれにくいことなのだなあ。
……
こんな風にゾロッと挙げてみたが、この「作品を世に問うて生きる為のプチ予行演習の巨大な場」というコミケの役割、そしてそれが作品のクオリティと、作者のセルフマネジメントぢからに与えるプラスの影響力、これはもっとずっとずっと強調されていい気がする。
……
「創作」というめんどくさい営為の間口を広げ、創作の楽しみを増やしていく、二次創作文化という巨大な土壌
そして、「ただ漫画を描くことから、漫画を世に問うことへと意識を橋渡ししていく実地訓練場」としてのコミケという巨大な土壌。
こういう土壌が、この日本というミョーチキリンな文化大国、何故か知らないが漫画やアニメを世界に出しまくっているこの日本という国における、「漫画作品を作る担い手の量」と「質」をかなり大きな仕方で担保している……私はそう感じている。
少なくとも、「コミケ禁止です!ハイ!」となったときに、この、肥沃すぎるほど肥沃な、コンテンツ製作者予備軍の層が、ゴッソリ失われるというのは想像に難くない。
(あー、漫画文化が、「いかがわしい、けしからんもの」から「金を稼げる世界的文化事業」へと立ち位置をスライドさせていったからこそ、コミケやら何やらが存続したって面はあるのだろうなあ。)

コミケ、結構ものすごく大切に思えるわけなのさ。
さて、このほかにも、コミケが漫画表現文化に寄与するものはあるのだけれど、今日は疲れたので、続編にて紹介します。 

続きはこちら。