前回のコラムンの続きです。
前回は、創作の間口を広げ作家志望者の層を守るものとしてのコミケの話でしたが、
今回はこれに加えて、「作家や、商業業界にとってのコミケの恩恵」の話を致します。
なお、コミケに参加できる作家となると、週刊連載でクソ忙しい作家さんとかだと先ず無理なので、必然的に成年向け作家とか成年向け商業誌の話が中心となります。

まず、前に経験した話をします。
☆ちょっと感動したウスイホンのお話
前の夏コミで戦利品のスケベブックを読んでいて、そのうちの一冊に心から感心したことがある。
普通、エロ漫画というのは大体のところ「あれこれあってスケベしてスケベして終わる」という構成になっている。これは「限られたページ数で読者の性的興奮を盛り上げ性的絶頂にいざなう」という目的上、どうしようもなくそうなる。スピードを求めたF1マシンの形状が収斂していくようにそうなる。
だが、その本は、スケベの後に、スケベ後のその人の日常描写がヌルリと続いていく。ここで何が起きているのかというと、主人公である女性の心が自問自答の中でグニグニと解きほぐされて変わってしまうという過程だ。
物語として、この作品の山場は、性交そのものよりもここでの心理の変化にある。だから、本全体のクライマックスもここになる。
そして、それがまあエロい訳だ。
肉料理を食べ続けた舌と胃に中華の秘伝のスープが来たような、じんわりとした満足感と、いつまでも響く読後感があった。
……振り返ってみると、スケベ商業誌というのは内容的制約が厳しい
kibisii
それはそうだ、まず「使える」というのが必須条件となるため、まあ男性向け成年誌だと、大概、クライマックスでの挿入と射精の描写は求められる。導入の4P以内にはエロに入ってくれ、という要請もある様子だし、理解できることだ。
また、自誌の購読層に求められるものを提示せねばならないので、雑誌のカラーを大きく外れないで下さいという約束がある。うちはファンタジーはダメとか、制服女子のみとか、熟女がいいなあとか、そういうのね。
尚且つ、一部読者に拒絶的反応を与えかねない描写、つまり「地雷」を避けなければならない。スカトロはダメとか、脚切断はダメとか、あるでしょう。
コンビニで売ってるような大手スケベマンガ誌ではいよいよ一般性と安全性が求められ、例えば犯罪である援助交際描写はNGだと聞くし、黒髪女子高生か黒髪主婦ばっか求められるなんてことも小耳に挟む。(実状は知らん。私はそういう仕事のお声がかかるマンじゃないからだ。うんち。)
先日発売された超大御所先生の単行本では、そのあとがきで、コンビニ誌の内容的制約が煩わしすぎて執筆を一時期辞めてしまったという報告がされていた。こんな高名な人でこうなるのか!と、目玉が飛び出た。
そのように、商業で試せない事、つまり商業で試せない主題、話の構成、人物像、フェチズム、そういうものは沢山出てくるのである。
それを、コミケという場では、実験的に提示して世に問うことが出来るのだ。
戦利品のそのスケベブックを手にしながら、
「あ、そうか、コミケは漫画表現の多様性を拡大させる役割があるのか!」と、この時悟った。
……
これが何を意味するのか、分かりますか?
これが意味するものは大きいのだ。すごく

・漫画家は相互参照のループの中にいる
当然だが、漫画家というのは互いに漫画を読み合い、こうふんした表現やシチュエーションに感化されて、それを取り入れたり真似たりすることで表現法を獲得し、技術を磨いていく。
エポックメイキングな作家さんが出てから、その表現が一気に拡散するということは結構ある。断面図とか、アヘ顔とか、あるでしょう。絵柄とか表情一つとかでもこういう拡散はある。アニメ「けい○ん」が出てからマンガの顔の基準がスコーンと「○いおん」に変位したように思えるし、あと「あ、このひょっとこ顔、近頃よく見る」とか、そういうのもある。これは作家が自発的にやることではあるが、編集が主導して行うこともある様子だ。一部の編集さんは、新人作家に「この作家の絵柄を真似たまえ、いいね?」みたいに指示することもあるという。商業の世界は、それこそ大きなところほど冒険がしづらいようになっているので、理解できる話だ。
この相互参照のループ、実は厄介なものでもあり、これが狭い世界で相互反射し続けると、その世界が均衡化し、「新刊のスケベ漫画単行本の絵柄がどれも同じに見える」みたいなことが起きてしまう。どのページをめくっても、なんか見たことがあるものにしかぶつからない、みたいなことになる。
そうすると、地盤全体が一気に沈下して、ジャンル全体が訴求力を失ってしまう訳だ
表現というのは総じて「球がストライクゾーンに収まっていること」と「球が散ること」を同時に求めていかないと、澱んで死んでしまう世界なのだ。
そんな時、こういうコミケのような場で、実験作が出てくる。野心作、冒険作、逸脱的な作品が出てくる。しかも魅力的な作品が出てくる。
それを作家がやはり相互参照する。新しい方法論を発見し、自分の枠を一つ一つ破壊しながら、それをまた自身の商業なり同人なりの作品にフィードバックさせていく。
こうして、表現世界全体にブクブクと新しい酸素が入り、表現世界が豊かになっていき、読者としては新しい表現や新しい興奮を享受する機会が増えていくということになるのだ。
表現の多様性の拡大は、表現世界の存在強度の拡大なのである。
……ちょっと語弊があるか。こう言い換えよう。
現状、表現の多様性の拡大が、表現世界の存在強度の拡大として、働いている。
意味するところのもの、大きいでしょう?
商業誌が、様々な事情から冒険できなくても、表現したい事を持った作家が同人で冒険できる。その冒険の成果が商業に返ってくる。これは商業誌の世界にとってもありがたい事だろうと思う。
……
コミケ、ありがたいでしょう?

あと、商業作家にとってのコミケの役割について、せっかくだから付言しておくと……
・作家ってのは生きていくのが大変
エロの商業作家というのは基本そんな儲からない。例えば月刊誌で20Pを描くとする。例えば原稿料が1P8000円としよう。そうすると、一作で得られる収入は16万円だ。掲載が隔月ペースなら月収8万円だ。A君「わああすげえ儲かってるじゃん!」Bさん「そうだね。」
ボーナス無し。隔月ペースなら単行本は二年に一度のようなペースになる。
そして作家というのは、サイクルとして「絵の勉強をして技術を磨く」「作品を作って出す」「セルフプロモーションし自分の宣伝力を上げる」の三つのタスクを行うことになる(少なくとも私はそう考えてやっている)。フルに原稿で働くと、このサイクルが破綻して、作家の存在強度が落ちてしまう。
そんな訳で、技術は磨ける」しかも「宣伝になる」そんな同人誌を即売会で頒布できるというのは、金銭面のみならず、作家の存在強度を保つ為の、とてもありがたい命綱になっているという訳だ。(そんな業界構造、不健全だ!作家さんがかわいそう!と憤慨される方もいらっしゃるかもしれないが、「不健全である代わりに元気もあるのだ」と言い換えてみたい。健全化させてコミケを廃止したら、多分みんな漫画家を維持できなくなってやめていくだろう。「白河の 清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」ってあったよね。)

……こんな訳で、コミケというのは、
1、作家の表現力の拡張に寄与し、
2、それが巡り巡って商業誌の世界含めた表現文化全体の活性化にも寄与し、
3、あとは商業だけでは支えきれない作家の人生を支え、結果として作家の数と作品多様性を増やしている

という役割を担っている訳なのである。
こうまとめてみると、すげえな!!

……
・「表現の自由を守る」の中身
表現の自由という言葉がある。この言葉、私自身はあまり説得力を感じていない。
表現が攻撃や中傷に使われることなんてのはよくあることだし、脅迫的表現は自由なのか、とか、まあ細かい問題は当然出てきてしまう。「○○の自由」というのは「それに付帯する社会的責任」ありきの話なのに、社会的責任までもが「自由」の名の下に免除される傾向もある。(前に騒がれた、「無責任な報道は電波停止してもいいんじゃね」に対する「報道の自由の侵害だ!」という反発とかね。)
社会が上手く回ることと「表現の自由」とが衝突する事はある。そしてその際に「表現の自由」というのはしばしば自発的に折れていくものであるし、今までもさんざ折れてきた。親戚一同の前で「ちんこまんこ」とか言い出して「表現の自由だ!」とか言う子供が出てきては社会は成り立たないのだから仕方ない。
だから、「表現の自由を守る」 という言葉は、「反社会的!けしからん!」という声に対しては、騒がしい教室に対する委員長のように、か弱い……ように思えてならないのである。
……
だが、それの意味するところが「表現の多様性を守る」であるとなると、話は変わってくる。「好き勝手させろ!」という自由を守りたいというよりは、「色々描きたいし読みたい!」という多様性を守りたいのだ。
「表現文化の豊かさを守る」 となると、更に良い具合になってくる。豊かな表現文化が現状、人の心に安らぎや快楽を与えつつ、更には巨大な産業になり経済効果を産み、そういう意味で社会に貢献している訳だから、これは守りたいところだ。というより、これを守りたいのだ。
そして、漫画に関しては、表現の多様性を守ることが、表現文化の豊かさと強さを守ることに「今のところ、繋がってる」
(繋がらなくなったら、その時また文化を活性化する為の手立てを講じることになる訳です。ちなみに、多様性が業界の健全性を破壊した例はある。アタリショック。)
そんな訳で、「自由」とか「権利」とかいう観点でなく、「社会の中に位置づけられ、皆の人生を潤し、経済を回す豊かさを生むもの」という視点から、表現というものについて考えてみるのも面白いかもしれない。
そう思う。