4日間にわたりましたコミケ、準備に関わられた皆様、サークル参加・一般参加された皆様、お疲れ様でした。
そして3日目のyogurtにお越しいただいた皆様、ご挨拶いただきました皆様、ありがとうございました。新刊が早々に完売してしまいまして、新刊をお手に出来なかった皆様、申し訳ございませんでした。委託・電子販売じょうほうはこちら!感想聞かせてね!
また、頒布をお手伝い頂きました売り子さんお二人(お二人の凄まじい働きとご配慮のお陰で本当に助かりました)に、ここで改めて感謝申し述べます。ありがとうございました。
今回のコミケではちょっと不思議な感覚があったので、それ含めとりとめなく書き残しておきます。
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・混んでた
私は三日目参加、大きな通路に面した誕生日席だったのだが、
目の前に人の濁流が出来ていて、12時くらいまで?いやもっと?ずっと混んでいた。
誕生日席、場所によっては「人がそこに留まれない」という状況になり、頒布の傾向がものすごく変わって来そうに思える。つまり、午後を大きく回ってもジーっと本を展開し続ける気概を持たないと、自他共に満足の行く頒布ができない、みたいな。
「混みすぎていて逆に人が減ってる」という感覚を、ここ数回の成年向け参加で感じている。この傾向、加速するのだとしたらちょっと厄介かもしれないけど、昔からそうなのかもしれないし、よくわからない。
・人の波が特殊
これは売り子さんに聞いたのだが、会場が有明と晴海に分散したことで、「晴海組が有明に遅れて到着することで生じる第二波」がある、のだそうだ。明確に実感はしなかったが多分あったのだと思う。12時・1時近辺で会場の混雑がハンパじゃなかった。数年前の東館でのコミケは、1時に行けばわりとスイスイ移動できるイメージがあった気がしたが…(でも数年前には三日目の混雑というものを体感していないのでなんともいえない)。いかんせんこれは会場分割から生じた特別な事態に思えるので、今後どうなるかは知らない。
・会場移動の難しさ
私は西1ホールだったのだが、気づけば(12時くらいかな)会場の移動規制が敷かれていて、入り口から西1には直接アクセスできず、西2から南を回って西1に行かねばならないという状態になっていた。田端から池袋に行くのに赤羽を経由するような迂遠さだ。お手洗いの為に西1を出たが最後、戻ることが出来ず、遠回りの行脚をしてしまった。
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つまり、気づけば自分の配置が「一般参加者にとって物凄く遠い場所」になってる、ということがある訳だ。
多分、西と南を併用する限りは生じる問題という気はする。だがわからない。しっかり導線が出来ればいいのかな。
・一次創作特有の孤独
今回、異様な孤独感を感じた。普段にない孤独を感じた。
私はそもそも社交が出来ないタイプ、というか、社交に費やす精神エネルギーの消耗が激しすぎて徐々に人付き合いを渋っていくタイプのマンだから人付き合いが先細りする傾向は否めないのだが、それにしても今回のコミケは「挨拶しに行った・しに来て下さった友人が少ない!」と感じた。
理由はいくつかあると思う。1、クッソ混んでるしクッソ暑いので、思い立って挨拶に行くハードルが単純に高い。2、成年向けジャンルが3日目と4日目に分散したので単純計算でサークル参加しているエロ作家先生の知り合いが半分になる。そう考えるとまあ自然なことのようには思う。おお、孤独感は勘違いだったのかも。自分で書いててそんな気がしてきたぞ。
ただ、一方で何とない虚無感というか手ごたえの無さが、自分の創作に由来している予感を感じて、少し考え込んでしまっている。

ここ数回、私はコミケや同人即売会に一次創作で参加している。いろいろな理由で始めたことで、ここは後悔も後ろめたさも特にない。やりたいと思ってやっていて、出来ているから、そこに問題はない。
で…同人誌、に限らず、ネット上でも何でも、イラストとか創作とかは一次創作と二次創作とで存在の仕方がワリと全然違う。
(簡略化しすぎた物言いをすると実態を逃すことが多いからあんましたくないけど)例えば、二次創作は、同好の士が集まる。皆が一つの山の方を向いているような状態だ。
一次創作は違う。作者と読者の関係性が強くなる。第三の位置の山みたいなものがない。店主と客、という関係性が強くなる。関係が互いを向く。これ、クッソ売れてる週刊少年誌とそのクッソ多い読者みたいに作者と読者が遠い関係だとストレスが少ないのだが、この関係が近距離の、対面的・相互影響的なものになると、作者と読者共に(共にってところが面白い)互いに精神エネルギーを損耗して、維持しづらい。
想像できるでしょう?例えば…創作というのは「今回はちょっとガッカリ」みたいなことがどうしようもなく存在するが、このガッカリというの、感じれば読者は損耗し、感じることを予感すれば作者は損耗する。ガッカリ感じたということを読者から言われれば作者は脈打つ心臓に小石を投げ当てられた気分になるし(通りすがりに誰かに舌打ちされたら、どれだけ自分に非がなかったり勘違いだったり気のせいだったり良くあることだったりしても、反射的にドロッと嫌な気分になったりするじゃないですか。この感覚に近い)、じゃあ言わないでおべんちゃらを言えば読者は心に一つウソを抱える。おべんちゃらを予感したらまた作者は心に一つウソを抱える。一本の糸が絡んだ車軸のように、どんどん摩擦が増えていき全てが重苦しく煩わしくなってくる。
他にも例えば…なんかの漫画を「自分で紹介してる」と何か鼻白むけど「別の誰かが褒めてる」とめっちゃ同調したくなる、とか、あるでしょう。創作と評価とかってのは、関係が直接すぎると難しいところがあるんだ。電車内で困ってる人に声をかけて座席を譲るより、知らん振りして席を立って自然に譲る形にする方が気楽、とか、あるでしょ?それに近い何かだ。一次創作と二次創作には、というか、「一次創作を描くこと/受け取ること」と「二次創作を描くこと/受け取ること」とには、それに近い関係がある、ように、感じる。
コミケというのは売り手と買い手が対面的な距離になるかなり特殊な現場で、それが二次創作の関係みたいな「同好の士の関係」だと物凄く相乗効果が生じることがあるのだが、「店と客」が「対面的な距離に強制的に置かれる」となると良し悪しがある場面かもしれない、と、ぼんやりと思っている。
特に、今の私は「デビューしたてで、新しい読者の方に囲まれていて、これから読者の方がどんどん増えるビジョンしかありません!」という状態ではないから、良し悪しの比重のシーソーが変わりつつある段階にあるのかもしれない。
このラインを粛々と歩き続けるの、心のパワーが必要な気がするが、考えたらこういうタイプの心のパワーがないと「何かを描き続け発表し続ける」とかそもそもムリな気がするので、結局粛々とやるしかないのだろう。
一次創作同人、今は流行りとか何とか言われているけど、もしかすると強風の荒野に全裸で立つくらい寄る辺ない孤独な営みなのかもしれないよ。
やり方の問題かもしれないけど。そうだとするとなんかどす黒い気分になって来るな。ものすごい狡猾な立ち回りが出来そう。
・宝物の本
コミケ4日目とコスホリの日、私は所用あって結局このイベントに参加できず、夕方になって別の用で外出した。その道すがら、山本ルンルン先生の『サーカスの娘オルガ』三巻を書店で探した。

地元には無かった。上野駅のでかくてマンガが強い書店で、書棚の中にラスト1冊を見つけて、ようやく買った。歩きながら読んだ。
面白かった。
そもそも山本ルンルン先生の作品は宝物のように作られている作品なのだが、手の中で本当に宝物のようなズシッとした重みを感じる。実際分厚いし肌触りがいいのだけど、装丁だけじゃなくて、作風も絵柄も、宝物であるように作られている本なのだ。
と同時に、こんな宝物のような本が、発売初日二日目くらいの段階で、書店で平積みにされていない、下手すれば入荷すらされていない、ということにゾワッと来た。『サーカスの娘オルガ』を押しのけて平積みを勝ち取った作品をじゃあ僕が読んでいるかというと読んでいないどころか手に取ってもいないのだ。でも、いいんだ。オイラにとって宝物だからいいんだ。商業作としてはそれじゃ困る、と言われたらどうしようもないけど、本ってそういうところがあるでしょう。「これは僕のだ!」感、というか。
そして、読みながら陰鬱になってくる。
何か、自分は今すごくつまらない人間になっているのではないか。
だから、コミケでも只の一次創作を頒布する店主みたいな感じになっちゃってるんじゃないのか。
コミケ参加だって、参加当初は胸躍る冒険とか挑戦であったはずなのが、何回か回数を重ねるうちにいつの間にか予測できる安定とか「失敗を減らそう」とかそういう打算で参加するようになっちゃってたんじゃないのか。
この手元の『サーカスの娘オルガ』に比べて俺は何なんだろう。
『オルガ』一冊がマンガ世界全体の豊かさをこんなにも力強く支えているのに、ノホホンとしている俺は何なのだ。
コミケ参加で感じた孤独感と相まって、自問自答が頭の中で渦巻いてしまった。
で。
結果として、何かすっげええ面白いことをやろう、と思った。
宝物みたいな本を作ろうと思ったので、つまり、これから、やります。
商業でも同人でもその都度何かものすごいのを描きます。考えたら前からそういう態度であろうとしていた気もするけど、つまり改めて頑張ります。

ちなみに、冬コミは、作家生命を燃やして『北へ。』の本を描く。