ビフィダス牧場

サークルyogurt、ビフィダスの活動報告場です

コラム

ビフィダスです。5月頭から休みを取っているつもりなのですが、
全然休めた気がしないのは僕が北海道に行っていないからでしょうね。
取材に行きたいが…

さて、私の中での最新作にあたる失楽天掲載「香リ合ワセ」
自分の中でもかなり性質の悪いストレスの中作業を進めた作品で、結果として作家生命にダメージを負い、おかげで今ダラダラと休みの時間を設けているのですが、
その切迫した作業の中で、我ながら「あっ」と感じたことがあったので、備忘を兼ねて残しておきます。
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「今日頑張れば明日には入稿できる、そしたらGW巨大連休前の編集さんを楽させてあげられる」みたいな不思議な義務感のもと、ヘコヘコと仕上げ作業を行っていた時のこと。
仕上げ作業というのは、ペンを入れた原稿に更にトーン(白でも黒でもない灰色のとこね)を貼り終えて、
ここからフキダシ(セリフを囲っているフワフワ丸いヤツね)とか効果描き文字(ドドドとかギシギシとかそういうの)を入れ、
セリフもその際に「多過ぎる」とか「なんか通りが悪い」とかで手を入れる、まあ読者の読み味を想定しての最終チェックのようなことをする作業行程なのですが、
その折、次のコマでふと気づきました。
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男が女に覆いかぶさりながら会話をしているシーンです。
…ヘンですよね?これがヘンということを、私は仕上げの段階でやっと気づくことが出来た訳です。
わかりますか?皆様にはわかるでしょうけど、描いている当人がわからなかった。本当、漫画の描き方初心者レベルみたいなことなのに、気づかなかった。
間をおきます。





はい。

二つのフキダシのうちの最初のセリフを、男と女のどちらが喋っているのかが、分からない。

この二人、顔の位置が近接しすぎているので、フキダシのトンガリ(正式名称を知らないけど、セリフを喋る人物の位置とか口の位置を示す尖ったパーツね)だけではセリフの喋り主を識別出来ないのです。
純粋にセリフだけ見てみると、二~三行目を見れば、「なにかの感想を言っていて、それは男側が言ってるセリフらしい」ことは想像できます。
が、問題は、セリフの一行目です。
「なんか」の時点では、このフキダシのセリフが誰に所属するのかが明確でない。
となると、読みながら読者の皆様は、この「なんか」のセリフを男の声で理解するべきか女の声で理解するべきか「わからない」ことになる訳です。
これは不味い。
描いている当人は「このセリフは男のモノ」と最初から知っているので、こういうことを見過ごしがちになってしまうんです。

これに気づいて筆が止まりました。さてどうしよう。
その時考慮した策をいくつか順に提示しておきます。
1、前後の脈絡をいじって、このコマのセリフがどう読んでも男が喋ってるターンであるように示す
→トーンまで貼り終えた前後のコマや流れをいじるのは高コストで、しかも読み口に害をなす可能性がある高リスクな方法なので却下。仕上げの時に手を入れるのは最小限のことでありたいマン。何故なら締め切り間際で思考力が落ち自信も無くなっている時に慌てて何かをいじると、全体の調和を大きく乱してそれに気づかないことが多いから。
ちなみに…
参考
大ゴマの右上とか大ゴマの直前に小さいコマで話し手の顔とセリフを入れて、次の大ゴマでのセリフ主をはっきりさせる手というのはあって、これはそこらじゅうで割と使われている気はする。
大ゴマの右上だと、こんな感じ。
参考3
大ゴマの直前だと、こう。
参考2
2、絵を差し替えて、男と女の顔が離れた構図にする
→トーンまで貼り終えた大ゴマを締め切り間近で変えるのはイヤなので却下。
3、フキダシのトンガリをニョイーンっと伸ばす
参考4
フキダシのトンガリを適切な仕方で伸ばすことや、フキダシ位置を適切な位置に動かして読みやすくするというのはスーパー基本的で良い手だとは思うのだけど、
絵や画面との兼ね合いでその手が使えないってことは、あります。仕方ないね。
今作では却下。
4、フキダシの中に、キャラの名前だとかデフォルメ顔とかを入れて話し主を明示する
参考5
セリフしかないコマとか、人物の多いスポーツ漫画の多人数発言シーン・解説シーンだとよくあるケースだけど、これも私の今作の画面には合わないし、画面情報量的にも煩わしい&合わないので却下。
5、男のフキダシの形や色を変えて差別化する
参考6
これもよくある手だが、こういう場合Cのセリフは前後から黒フキダシになってる、みたいな文脈的統一性がないと成立しないので、僕の今回の作品ではあまり使いたくない。
あと、フキダシの色が黒い場合は発言状況や発言人物が特殊というイメージ(NPCとか、悪の存在だとか、竿役おじさんとか、あとは物凄くどす黒い一言とか)があるので、ちょっとここでは使いたくない。別にこれは約束事はないので上手くやれば使えるとは思うけど。

じゃあどうしたのかというと…
まあつまり、フキダシに工夫をせずに、発話者を明示する為に有用だと思ったことをやりました。
その内容は…本誌をご確認いただけると嬉しく存じます(販促ムーブ)。
コミフロはこちら!https://komiflo.com/comics/5348

いかんせん、
ネームの時点で気づいていなかった自分が悪いということではあるのですが、
ネームが比較的乱雑でもチェックを通ってしまうケースは結構あると思う(作家がデビューして間もないとかデビュー前とかだと、編集さんに徹底指導される内容だとは思うが、編集さんに基礎的なことをある程度教えてもらったら、あとは自分でチェックすべきだと思うのでやっぱ私が悪い)し、
あと、線画のチェックを入れてもらう際には作業行程の都合上、セリフを出力しないまま編集さんに提出してしまうことがあるので、
結局、作家自身がしっかりチェックするしかないことな気がする。

危なかった。
漫画を皆様にお届けする際には本当小さくも重要な苦労があるということに、しみじみ気づかされたというお話です。
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漫画って、どこか読みづらい箇所があると、その瞬間に気づかぬうちに心の歯車が作品から1mm1mm離れていって、やがて目と脳が画面からスゥーッと離れていってしまうというケースがあるので本当怖いと思う。
一方、読みづらいくせに、何度も何度も繰り返して謎を解くように読んでしまい、グイグイ引き込まれてしまう作品というのもあって、ワタモテとかがそれだと思う。でもそれも、ワタモテが「心の謎を提示し、それを解く」という構成で出来た物語だからというところが大きい気がするので、「読みづらい作品ほどみんな読み返してくれる」みたいなことでは決してないと思う。思う思う。全部推測で全部仮説だけど、この仮説はかなり耐久性の高い仮説なので僕は暫定的に信じている。
漫画ってほんっとーに面白いですね。

先日、札幌雪まつりに行き、本屋さんとか古本屋さんとかを見て回っていた。
古本屋だと、北海道大学の前に猫のいる古本屋さんがあって、そこが結構、暖房が効いてるし猫がいるので好きなのだ。
さて、売られている本をザラーッと眺めていると、一般書店の店頭に並ぶものなら、大体こんな感じで分類できそうな気がしてくる。
1、有名作者であることがウリの本 つまり作家が有名だから売る/買う。文芸書とかは基本これ。
2、作者の権威がウリの本 なんかの新書とかアドバイス書で、本の表紙に「著者 ○○大学教授」とか書かれてる奴。文芸書とビジネス書の狭間にある実用新書とかはこれが多い気がする。
3、目的・用途がウリの本 ビジネスの本、財テクの本、健康の本みたいな奴で、タイトルは文字がドドンと出る。新書からさらに砕けた、ビジネス新書系の本とかコンビニ売りビジネス書/健康書とかはこれが多い気がする。
何となく見当つくでしょう。ちなみに、1と2は近いし、2と3は近い。
・・・
で、僕はエロ漫画畑の人間なのでついつい全部を自分にひきつけて考えてしまう訳なのだが、
様々な本の表紙を見ながら、ふと考えてしまった。
「あれ、2と3のケースって、作家の名前を僕は認識できているだろうか?」
2の場合、重要なのは本を権威付ける肩書きの方だ。「○○大学教授」の肩書きの方が意味が強い。
3に至っては、ようしらん著者の本でも、なんか表紙で堂々と「デキル大人はSNSでしょっちゅうチンコとか叫ぶ」とか言われたらついついそんな気がして手に取ってしまいそうなものだ。
古本屋とは、そうして売られた本が時代の表層を流れ落ちてもう一度集まる場所なのだ。だから、一昔前に見かけた本をそこで再び見つけた時、ちょっとセンチな気分になるのだ。
・・・だが、そのうちこんな考えが持ち上がってきた。
「作家として、作者の名前を覚えてもらうことというのは、本を売ることにとってどれくらい必要なことなのだろう?」
例えば3のケースは、本を出す側としては、どっかの誰かがそれらしい内容の本を堂々と書いて、責任を負ってくれて、それが売れそうなら何だっていいし、売れそうなタイトルにして表紙にメッセージをドンと付けて売るのだから、「あの有名な本を書いた著者です!」みたいな売り込みは不要だ。
2だって分かったもんじゃない。
そもそも人間というのはどれほど頑張っても所詮ちっぽけな存在なので、書いたことが後で(もしくは最初から)間違ってたってことは仕方がないことだし(たまったもんじゃないけど)、知的責任みたいなものは負いきれない。出た本の誤りを指摘し、その著者の責任を追及する、みたいな動きはものすごく後ろ向きで非生産的なので、あんまみんなやりたがらない。それよりは売れそうなキャッチーな本をバリバリ書いておぜぜを稼ぎたいというのが人情だ(誠実な側がバカを見るというどうにも嫌な状況なんだが)。
つまり、「著者を覚えてもらうこと/著者の名前の持つ信頼性」みたいなことは、ある種の新書・ビジネス書とかにはあんま求められていない、のだ。

・・・こういうことを考えると、ちょっとクラッと来てしまう。
というのも、これまでの話は「本を売る・買う側」の話だからだ。
では「本を書く側」に当てはめるとどうなのか。これ考えると暗澹たる気分になりませんか?
本を書く側の持つビジョンというのは大体こんなもんじゃないだろうか。
「自分という作者の存在が認知されて、人気作家になり、自分が本を出すたびファンがついて来てくれる」
だが、例えば「認知」の段階はどうなのか。・・・一人の作家が実績を積み上げて有名作家になる、というルートはどこにあるのだろう。なんかの新人賞とかを取って、鳴り物入りで売ってもらう、みたいなことをするのだろうか。新人賞って年に何人輩出されるのだ。
本を出すに至る為に信頼と実績を積み重ねる、そのための場所って、どこにあるんだろうか。(ジャンプとかエンジェル倶楽部みたいに雑誌とかあるのか。僕は文芸雑誌を読まない!!コミケの文学ジャンルとか渋とかからスカウトされるのかな。わかんね。教えて!)
もしくは、学者や芸能人が本を出すように、既に別ジャンルで知名度を稼いでからにする、みたいなことをするのだろうか。
しかもその上、「作者名とかどうでもよく、兎に角時代のニーズに即した本を作ってくれた方が出版社としても書店としてもありがたく、現状そういう本はずーっと出続けている」という状況は存在する。書店で動いている本のどれくらいのパーセンテージがこれなのか、数値は知らないが、面積的には結構多いんだから多いんだろう。
坂本ジュリエッタみたいに、ゴーストライターとして働き、依頼に即してありとあらゆるジャンルの本を見境無くバリバリ書くという姿だってありえるのだが、それは坂本ジュリエッタが天才かつ変人だからできることのような気もする。最初からジュリエッタを目指す作家、ジュリエッタ的な才能を自覚している人って、どれだけいるのだろう。
・・・ちなみにこういうこと、「小説家になろう」(という小説投稿SNS、というのかな)ではとっくのとうちゃんに普通にある(と、知人の先生に聞いたことがある。聞いたのが1,2年前の話なので情報が古いかもしれない)。
つまり、作家志望者が作品を投稿する。ある程度やって人気が出なかったら、筆名を放棄して、新たな作者としてもう一度最初からやる。当たるまでやる、というものだ。人気の出なかった過去の筆名はイメージを落とすのでとっとと切ってしまうというのだ。こういう小説ではタイトルの方を極力目立たせ説明的にする、というのも、この動きに適っている気がする。作者名よりもタイトルの方がずーっと重要なのだ。
「作品名が表に出れば出るほど、著者名は後退する」・・・というのが、ネット小説にもビジネス書にも当てはまりそうな気さえする。
そして、
「自分という作者の存在が認知されて、人気作家になり、自分が本を出すたびファンがついて来てくれる」という素朴なビジョンは、何だか雑誌文化とかがエスカレーターとして機能していた頃の名残のようにさえ感じられてしまう。
兎に角、時代は流れていく。空港の公衆電話スペースは電源スペースに入れ替わった。作家だって生きる仕方を自分で握って考えていかねばならない。作家という意味では恐らく昔の方がもっとひどかった。作品発表機会が雑誌しかなかったんだから。今は恵まれた時代だ。だから、どういう恵まれ方なのかを考えねばならない。
・・・
こう考えていくと、
全ての事柄が
作家として生きる、というのは何を目指すことなのか、
作家として成功する、というのは何を目指すことなのか、
ということに集約していくように思われてしまう。
作家寿命は何年か。1年?10年?20年?20年だと25歳の人が45歳になる計算だ。
有名作家になって、出す作品出す作品がスマッシュヒットするような作家になりたいのか。その後はどうなるのか。東山アキコ先生とか金田一蓮十郎先生とか本当すごいと思う。何であんなパカパカ描けるのだ。
ジャンプの長期連載みたいに、一つの作品を大あてして、その作品に作家寿命の全てを費やす形にしたいのか。それは狙ってできるのか。それが終わったらその後はどうなるのか。
兎に角一つの作品を当てて(当てたいね)、じゃあそれをどこまで持っていくのか。当たるとは何を意味するのか。一時的な注目なのか、本を出せればOKなのか、本をどれだけの間出せるのか。本以外の、発表の形式はあるのか。またそれは生計をどれほど保障するのか。アニメ化とかドラマ化とかしたいのか。その後はどうなるのか。
作家名なんかどうでもよくて、その時代のニーズを駆け抜けるという作り方・売り方は、自分にできるのか。何年走れるのか。
タイトルを愛されたいのか。
テーマ性を愛されたいのか。
作家性を愛されたいのか。
作家名を愛されたいのか。

ここら辺のこと、書く側・描く側がきっちり考えてやっておかないと・・・
この、恵まれながらも不安の蔓延する時代で、不本意な踊り方をすることになってしまう人が沢山出てきてしまい悲しいことになるんじゃないかな、
と、ちょっと思った。
「作品タイトルはアピールされているのに作家の個性は認識されていない」とか、その逆とか、そういうのって多分その当人にとってはとっても不本意な状況である予感がするじゃあないですか。悲しいじゃないですか。悲しいかどうかは当人が決めることだから僕の関知するところじゃないっちゃあそうなのだけど。

古本屋は10年20年の本の歴史が背表紙になって通覧できる。だからついセンチな気分になって、こういうことを考えてしまうのでした。
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ちなみに、札幌の文教堂だと、目立つ棚には結構ちょっと政治色の強い本が多くて、それは札幌を取り巻く政治的危機感みたいなものに触発されて産まれたコーナーのようでもあるので、こういう売り方って漫画じゃ出来ないから羨ましいよなーと思ったりしたし、
漫画って結構、なんというか、時代の表層に左右されない根のしっかり張った頑健な娯楽文化なんじゃないかとかも思ったりもして、少しホッコリした。

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失楽天に掲載させて頂きましたこの作品「ミユキ姉のソファー」
(コミフロでのリンクはコチラ!読んでね!→)https://komiflo.com/comics/4469
(あ、電子アンケートもあるのでよろすくね!→https://www.wani.com/product/13878_s/
について、思い出したことがあったので備忘がてら記述しておきます。
このヒロインのミユキさんは、キャラデザインと基本構想だけは7月くらいに既に出来ていました。s174
↑編集さんに提出したラフ。この段階で「でかくてだらしないボデーの女の子を描く、その女の子は基本内向的だが家の中で出会う主人公に対してだけは素の態度が出る」というコンセプトが明確だった。
で、このヒロイン像を僕は気に入って、
「隣の家のだらしないお姉さんがスキだらけで寝ている時に、ひっそりイタズラする」という話の構想を立ち上げたのです。
そのとき、編集さんから頂いたアドバイスがこうでした。
編集さん「お隣さんだと関係性が弱い気がするので、従姉妹とかにしませんか」
私「なるほど(←あまりに安易な同調) そうしてみましょうか」

この提案を僕が受諾してから、このネームは一切が止まりました。
二人の関係性と出会いのシチュエーションという、話の根幹・前提・土台が変わってしまったので、その上に立っていた道中~帰結までの流れ、ウッスラ考えていた「描きたいポイント」がゼンブ息の根を止められてしまったのです。
揺らいだ土台からは、アイデアの枝葉がバラバラに生えてくる。このまとまらない思いつきの集合体の量が、いよいよ精神を圧迫する。どの枝葉を切れば幹が通るのかが、ある時点から完璧に見えなくなってしまう。
結果、スケジュールのデッドラインになって構想全撤回・再提出したのが、「もてなしの湯」となります。

「もてなしの湯」を描いた後も、生み出したヒロイン像(むちむちはどーしても描きたい)は頭から離れないので、この子の魂に肉体を与えて脳の牢獄から解放してやる為にも、再度ネームに挑戦しました。
が、やはり焦点が定まらない。
で、スケジュールのデッドラインになって、話の前提をあれこれ組み替えたり要素を整理したりして、従姉妹という設定を「なんか導入がかったるい」と感じて「お隣さん」にしたところ…
一気に話が出来上がりました。
そして、後々になって自分の難航の理由を確認すべく振り返って考えていた際に、
「あ、これ最初の構想に戻っただけだった!」と気づいたのでした。
これは大変教訓に富む気づきとなりました。

思うに、物語の着想となる最初のひらめきというのは、複数のアイデアのワンセットなのでしょう。
そのワンセットのアイデアたちは強固な直感性を持ちながら緩やかに親和していて、
思いつきでいじってしまうと、親和性が失われておおもとのパワフルな直感性ごとダメになってしまう…。(例えば…カレーという着想には、味の強いカレーソースその味を受け止めつつボリュームの主体を担う温かくて柔らかいライスアクセントたる福神漬けがワンセットになっていて、そのライスを「ライスより大根おろしの方が健康に良さそう、白いし」とかいって差し替えてしまうと、おおもとの食べたいものではなくなってしまう訳だ。)
この、最初のひらめきの時点で、パワフルなアイデアのワンセットをどこまでガッチリ作れるかが、読み切りを構想する上でのキモではないか、とか考えてしまいますね。

あと、人のアドバイスは話半分で聞いておけ、という教訓も得られました。話半分という態度って実は物凄く良いことな気がする。「参考になるなら取り入れるし、そうでなければ省みない」というの、アイデアマンのキモみたいな態度な気がする。何でもかんでも柔軟に意見を取り入れればオトナ、という訳では決してない。

自由スクロール系・上カメラ式のシューティングゲームのことを考えていて、一まとまりの分析が出来たので残しておきます。
●引き撃ち安定問題というジゴク
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自キャラが前後左右に移動しながら画面をスクロールしていって、敵にショットをポコスカ当てて倒していく系のゲームを考えてみてください。
そういうゲームで、時たまゲームシステム・バランス上、次のようなプレイスタイルが安定してしまうという現象が生じます。
「敵が弾を撃って来たら後退して離れ、
敵の弾が届かずこっちの弾だけ届く位置から弾をチビチビ撃って各個撃破していくのが一番安全」
というやつです。
stg2

引き撃ち(後退しながらチマチマ撃つこと)安定、というやつですね。
これが安定してしまうとゲームはものすごくつまらなくなる
刺激も攻略性もない消極的チマチマプレイが安全策&最善攻略、になるのですから。
引き撃ち安定問題。これは、自キャラが前後左右に動いて敵を倒すゲームを作る人が直面し易い問題であると思いますし、そうなっちゃった悲しいゲームは結構多い筈です。哭牙とか。

●なんでこうなるの
さて、こういう現象が生じてしまうゲームには大体こういう基礎条件があります。
1・自機ライフを守ることが(敵への積極的攻撃よりも)長生き・攻略に繋がる。
…例えば、ライフ回復機会が極端に少ないとかで、細かい敵弾を食らわないことの重要度が高いゲーム。
死ぬと大損こくゲームだったりすると尚更です。(いちいち長くかったるい道中をやり直すとか、ゲーム内のお金が減るとか。つまり僕らがかけた時間や労力が無駄になるとわかると、大体ぼくらは面倒くさがってやらなくなってしまう。ことが多い。気がする。)
2・敵弾が多い。
敵弾が多い。
→敵弾の多い場所に居ると、そこにさらに攻撃を重ねられて被弾する。
→離れてから敵機を各個撃破するのが一番良い攻略法になる。
3・敵弾が遅い。ないし自機の足が速い。
敵弾が自機の移動速度よりずっと速い場合、後退して避ける行動は無意味になります。嫌が応でもチョン避け・横避けになりますよね。
また、自機の足が速いと、チョン避け・スキマ避けみたいな精密動作が難しくなり、後退とか大回りとかの動きが増えていきます。
4・敵が各自、自分のタイミングで弾を撃ってくる。(敵が攻撃タイミングの連携とかを全然しない。)
こうなると、敵が多い=敵弾が多い=危険という関係がものすごく安易に成立するので、「チマチマ各個撃破が安全」になり易い訳です。
・・・
●じゃあどうすればよさげか
1-1・敵を派手に倒すほど、いいことがある。
なんか、敵の近くで派手に倒したりすると
・ライフが増えるとか、後でライフが増える何かが溜まるので、果敢に攻めてダメージ食らってもおつりが来る
・自機が少しの時間無敵になって、ダメージへの心配が一気に減る。(なんかマニアックになりそうだけど、設定でなんか説明すると納得感増しそう。敵弾から放出されるムニャムニャを接触吸収することによりムニャムニャみたいに。)
・自機の経験値とかお金とかがたまって、派手な技が増えたりパワーアップしたりしてそれが楽しいからどんどん近づきたい。遠くで撃ってると損する。
1-2・敵弾に対する緊急回避動作がある。
なんか、タイミング見計らって横入力するとシュインって敵攻撃をかわして無敵になるとか、アクションゲームだとよくある。つまり、後退よりも安全で安心で楽しい回避動作がある
1-3・敵に近づいての攻撃が楽しい。
・遠くからチマチマ撃つのでなく近くで何か派手にやるほうが楽しいので、そうしたい、と思えるようなバランス。
・近くでの攻撃が強すぎるのも問題だ…近づいてブンブンしてれば安定、というのも大味でつまらないからだ。敵の近くでブンブンしながら、何か敵の攻撃・挙動にそれでも時々対応しなきゃいけない、ってぇのが一番いい気がする。
1-4・そもそもヒットアンドアウェイするゲームにする。
爆弾投げるとか、つまり敵の集団にポーンと爆発物投げ込んで逃げてウハウハ、みたいなプレイ感で遊ぶように作られたゲームだと、引き撃ちも楽しそう。
1-5・死んでもすぐやり直せて、やり直しても楽しいゲーム。
そもそも、死ぬことがかったるいことじゃないゲームなら良いわけで。ゲームそのものの刺激性や中毒性が高いゲームだと、いいですよね。バンガイオーの特定面とか。(ってことは、引き撃ちをしている=既にそのゲームの道中がつまらないことの証、という気がしてきた。
2-1・敵弾が少ない。
・例えば、敵攻撃が常に単発自機狙いとか大振り&スキだらけだとかで、「敵攻撃をかわす時は横とか斜め前に避けて近づいていくのが基本ムーブ」となる。
・敵が、扇状に広がるWAY弾とか四方八方に広がるバラマキ弾とかを放たない。
2-2・敵弾を消せる。
・大量の敵弾に対する対応方が、後退以外にもあればいいので、例えば消せるとか…でも、そうするとリスク要因としての敵弾の存在意味がなくなるから難しそう。
3-1・自機が敵の弾幕に対応できてスキマ抜けも大回りもできるように、高速移動も低速精密移動もできる。…なんか煩わしそう。だめっぽい。
3-2・むしろ敵弾がクッソ遅いので、後退するまでもなく見切れる。これもいいよね。
4-1・敵の集団が連携していて、タイミングをあわせて攻撃してくるので、見切りやすく避けやすい。…プログラミングめんどそう。

エンジェル倶楽部次月号に向けた原稿を入稿した。キャラデザ提出日が9月6日だったので、
この20P原稿に20日程度かけてしまったことになる。
今月はあれこれ用事が多く、作業時間を思うように取れなかったのもあるし、艦これイベントが重なってムニャムニャといったことがあったので深刻視はすべきでないと思うが、
それでも「時間をかけすぎた」…というか「気乗りしなくて作業が進まないことが多かった」という嫌な気分が残っていて、あまりスカッとした入稿明けではない。まあこれも「週末に三連休が重なって、『あんま急いでも仕方がない週末』の時間が複数回あった」という事情から来るものが多いのだけれど。
……
ついでに、備忘がてらちょっと思い出したことを描きます。
先刻「失楽天」に掲載させて頂きました「もてなしの湯」。
この作品は、描きながら悩み、描き終えた後も悩むというかなり苦い状態の中に晒され続けた作品だった。
komifloはこちら→https://komiflo.com/comics/4179
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温泉街にて、困った女性と知り合う話というのを描きたかったのだが、
この女性(ヒロインの麦さんね)は、外見からして「温泉っぽい女性」では全く無い
これは意図してそうしたことだ。
「温泉っぽくない女の子が温泉宿の主をしている」という出会いがこうふんすると感じたのだ。
だが、描いていくうちにどんどん不安になってくる。
基本、「外見」と「属性」は連動しているほうが良い(ここの「良い」の意味も問題なのだが)。お嬢様然とした外見の子は、お嬢様であるか、お嬢様でありながらド変態とかと相場が決まっているし、黒髪ショートのボーイッシュ日焼け娘は運動部の後輩か、再会した田舎の幼なじみと相場が決まっている。こういうのは見て一撃で分かる。見て一撃で、舞台・人物の性格・物語・プレイ内容までおおざっぱに掴めるのがいい。
エロ漫画はとりわけ視覚的な訴求の強い分野だ。目に飛び込んでくるわかりやすく魅惑的な1ページ、1コマがあるだけで「おっ」と物語世界に引きずり込めるし、これが無いなら下手すれば雑誌の中で目にも留めてもらえないかもしれない。
…そんな中で、「もてなしの湯」のヒロイン、属性と外見が連動していないヒロインは失策のように思われた。
描きながら不安が膨れ上がり、企画当初の意志や意図はグワングワンに揺れて、描きながら「自分はダメ人間かも」とすら思った。
……
こうして発表された本作だが、結果としては(アンケートの集計はまだだから、よかったら送ってね!このページの画面下部にアンケへのリンクがあるんよ→https://www.wani.com/product/13878_s/)とりあえず、komifloではこれまでにない沢山の反応とご感想を頂けた。
読んで頂けたこと、そして読んで頂いた方からご反応を頂戴できたということに、安心した。
だから、当初の私の意志や意図はとりあえずそう間違ってはいなかった、と、一旦自分の気を宥めることができている。
……
本作を、外見と属性が違うヒロインにしたのは、「読んでいる人が自分で見つける宝物のようなヒロイン」のようにしたかったからだ。
先の表現を使うなら「見て一撃では分からないものを、自分で読んで見つける体験」をして欲しいなあ、と思ったからだ。
この体験、価値のあるもののはずだと私は考えているので、こういう作品を描いたし、多分これからもこういう姿勢でちょくちょく描く。
だが、こういう作品作りは、悲しいかなSNS宣伝の時代と全くソリが合わない。「フックになる画面を、みんなのために公開する」みたいなやり方に向かない。下手すれば作品魅力を毀損するかもしれない。
そんな訳で、「読んでくださった方がちゃんといる」と確認できたことが本当に嬉しかった。
これからも頑張ります。


……
「外見と属性の連動による分かり易さ」「一撃で見てわかる」系の訴求力というもの、「良い」もののように見えながら実は結構弱点があることなのかもな、と、ネバネバ考えている。

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