ビフィダス牧場

サークルyogurt、ビフィダスの活動報告場です

コラム

ビフィダスです。
8月頭に同人新作を出し、
8月上旬にエア夏コミケ(書店が従来の夏のコミケ時期に合わせて用意した同人誌フェアで、コミケと呼ぶのは不適当なのだけど、便宜的にそう呼んだ)がありました。
それ以降は、四冊目の単行本に向けて修正、加筆作業をチマチマと進めていました。
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今ようやく、本文の加筆分作業が終わり、ここからカラー作業等に入っていくのですが、
加筆したページ数を勘定したところ…22ページになっていました。(修正ページを加えると作業量はもっと増える)
雑誌掲載一話分が20ページと考えると、それ以上を単行本のために書き下ろしている訳で、びっくらこです。

●単行本のおまけの良し悪し

実を言うと、この増筆の作業中、かなり変なメンタルでした。仕事はしてるのに仕事をしていない感じがあるというか、ダラダラ疲れているというか。
私は「20pなり40pなりの一話を描いて入稿し作品化する」という製作ペースに慣れている人間なので、
ここのところの作業は「なんかずっと作業はしているのに、なんか終わりにならない」みたいな感じだったのです。
一人分のカレーを30分でテキパキ作っていた人間が、いきなり多人数向けの大鍋カレーを作るために30分間ずっとジャガイモの皮を剥く作業をしている、みたいな、「ペース感と達成感の不慣れさ」があったのですな。単行本期には前から良くあったことにも思えますね。

また、これは古事記にあるのですが、「単行本にサービスのおまけをしても単行本の売れ方には関係がない」という見解があり、これは僕も賛同しています。
サービス。はたから聴いていると、多いに越したことはないように見える存在です。増やせば増やすだけ良くなることに思えます。が。
現に、買う側としては僕自身、何かの作品を買う時に「単行本のおまけが楽しみ」で買うよりは、普通に「その本が楽しみ」で買う訳です。「おまけ加筆をウリにした本」というの、なんか聞き慣れない存在です。滅多にないんじゃないでしょうか。
また、描く側としても、サービスというのは結構しんどいものがあります。イメージとしては「単行本一冊目で張り切っておまけページを用意しまくった結果、二巻目以降も読者をガッカリさせたくなくてそのサービスを減らせず、毎度の単行本作業がどんどん負担になっていく」みたいなこと、ありそうですし、現実にあるようです。「サービスしなきゃ、しなきゃ」という累積的な責務感と作業量によって、作家が潰れてしまっては元も子もない。
したがって、よく言われることですが「何かを持続的なものにするために、サービス競争はしない、汗をかき過ぎない」みたいなのって、かなり重要なことなのだと思います。

●サービス競争はしない
サービス競争はしない。サービス競争をすることで、長期的に自分の首を絞め、可能性を狭めたり幸福を下げてしまう。
また、これは「自分」の中の話のみならず「全体」にとっても重要なことだったりします。例えばどこかの駅にゲーセンが3軒あったとする。そのうちの一店が「サービスで1ゲームを半額にする!」みたいなことをすると、客を奪われない為に残りの二店も値下げし、無駄に三軒とも同じ労働内容で売り上げが減ってみんなで泣く、みたいなこと、ありそうですし、現実にあるケースだったようです。
まあ、漫画に関しては「サービスの量が勝負になる」ことが滅多にないので(同人誌とかも、半額にすればバカ売れするとか、ページ数増やせばバカ売れするとか、作画密度を倍にすれば倍売れる、みたいなことはマジで滅多にない訳です)、サービスしようにも自然な上限がありはするのですが、これも時代の趨勢による変化はあることかもしれません。

●じゃあ何故おまけを書くの

じゃあ私がなんでこんなにおまけを用意しているのかというと、「雑誌で読んでくださった方や単話で買っていただいた方にも、新たな気持ちで読んで頂けたら」みたいな気分な訳です。毎回私を支えて下さった方へのお礼というか。あとは、まあ自分で描きたくて、描けるスケジュールがあったから、描いた、みたいなことではあります。自分の意志と優先順位と現実との折衷で、できることをやったという話です。
いかんせん、私が好きでやっていることであって、「誰もがそうすべき」とか「俺は秀でている」とかでは全然ないと思ってください。むしろ、この作業後に私が死んだり、燃え尽きてやる気を失って筆を折ったりしたら「俺はバカ」みたいなことである訳です。
自分がやりたいからやっている」というの、個人的には好きな価値観です。自分や他人に迷惑をかけない範囲で、ではありますけどね。

●やりたいからやる、とは
やりたいからやる、というのは、
自分の人生観、価値観、幸福観に即する、ということであります。
自分が生きる目的は何か。何が僕の幸せか。
その作品に全力投球し、自分の中で悔いを残さない」という姿勢もあります(自分の満足度が問題、というのが大事ね。デメリットとして寡作になりがちでスケジュール管理がしんどくなるのと、本人の力量がないとそもそも作品が世に出ないみたいな困難があります)。
持続的に作品を出し続けることを重視する」という姿勢もあります(後先考えて創作するタイプですが、作品が縮こまり易いみたいなデメリットがあり、心や技の栄養管理が重要です)。
思いついたものは生み出してあげたい」という単純な姿勢もあります(脳内に生まれたビジョンはとっとと具現化したい、という欲求、漫画描きも文章書きも含め、物書きは結構自然に持ってる人が多い気がしますね)。
生きるために必要な分だけ執筆で稼ぎ、後はなるべく自分の幸せの為に生きる」という姿勢もあります(デメリットとして怠惰になりがちな予感がしますが、そんなことは他人にとやかく言われることじゃなく、つまり別にどうでもいいことです)。
各人が、諸々の価値観を比較検討し、自分の画力、体力、やる気、スケジュールと天秤にかけて、自分なりの落とし所でやっている訳です。
良し悪しではない訳ですね。本人の幸せに即する形なら何でもいい訳です。

サービスとか汗というものには厄介な制約があり、100が偉い訳でもなければ100を自分に課すものでもない訳ですね。むしろ考えるべきは、幸福に生きるための、息の長い計算と判断、なんじゃないかと思います。

これと似たこと、最近感じています。
旅行です。

●思い返すと世界は本当大変だった
今年の二月から始まった新型コロナウイルスの流行。四月ごろは凄まじい恐怖と犠牲を、そして社会的混乱を生みましたが、どこかから対処法みたいなことがゆっくりと見えてきて、現状では重傷者に対する手当てや感染予防対策の要点(つまり、ビビるべきところとビビらんでもいいところ、力の入れどころの判断ね)もかなり浸透している気配です。
ただ、緊急事態宣言が解除されていった六月近辺は、人々の態度はかなり左右に振られていた気がします。
病気の拡大を制限する為に出された緊急事態宣言と、それによる様々な社会活動の停止。しかし、社会活動の停止というのは、生命維持のための血流を止めるようなもの、首を締めるようなものです。「身体を蛇に噛まれたので、全身の動脈をギュッと止血しているが、流石にこのままだと体が腐って死ぬ」みたいな状況。判断が難しかったでしょう。本当、難しさを感じます。
病気を広めたくはない。でも体の組織を死なせる訳にはいかない。結果として「感染を広げない勘所を明確にして、店にも客にも協力を求める」という形にし、各業界でガイドラインを作ったり、消毒設備を用意したり、金銭的補助をしたり、本当色々な工夫と協力によって、緩やかに血流を回す方針になった様子ですね。
本当、この頃は人々の態度も判断も左右に振られていました。
自粛が正解なのか。外出しちゃっていいのか。知人の店や行きたい店が苦しみに喘ぐ声がどんどん伝わってきます。自分の職だってどうなるか。手を差し伸べたい。でも、外出をして自分が感染してしまい家族に病気を広めてしまったら。後悔なく生きる為にどうすればいいのか。
様々な人が各々の立場と各人の懸念をもとに、様々なオピニオンを表明しました。
「こうするな」「ああするな」「これするのはバカ」「あれするのはけしからん」。世に溢れるオピニオンの往復ビンタで、人々(主語がでかい)は殴られ続けたように思います。
僕自身はそれによりオピニオンに対するアレルギーが生まれ、オピニオンを遠ざけて日々YouTubeでトルコ人シェフの笑顔の料理風景を見るだけの人間になってしまいました。

●北へ。
そんな私は八月中旬ごろ、北海道へ旅行に行っていました。
私は「北へ。」というゲームを最近知って、とても好きなのですが、このゲームでは、開発時期である1999年近辺の北海道の街並み、店舗、風景が実写で使われています。
しかし、その1999年近辺に起きていた不況だったかにより(当時を知っている人はいらっしゃるのでしょう。私は知らないのですよね…)、1999年当時にあってゲーム内に登場していたお店や建物は、かなり消滅したり閉鎖されたりしているのです(まあ、普通のお店も20年経って存続してることは少ないのかもしれませんが)。
20年後、この2020年の、コロナという凄まじい危機。行きたいところには行ける時に行っておかないと、二度と行けなくなる場所があるかもしれない
そんな訳で、体調の不安要素を回避しつつ旅に備え、行ってきた訳です。
その際も、考えることは沢山ありました。
・私が現実に感染を振りまく可能性(旅前での体調管理と、危険回避と、マメな体温計測。計画として、旅先で友人とあんま会わないと決める)。
・私が感染していたとして、感染を撒き散らさない為に出来る心がけ(唾を人に飛ばさないこと、ベタベタ触ったりしないこと)。
・私が旅先でまかり間違って病気をもらわないための心がけ(人とべちゃくちゃ話して互いの唾を飲まない、汚い指で顔を触らない、密な接触のある店とか行かない)。
・私が旅行に行ったと表明することで、「じゃあ僕もいいかも」という流れを少しでも生む可能性(これは考えすぎなんだけど、当初は結構これが怖かった。振り返るにこの判断は難しかった覚えがある。今はこんなこと考える必要はないと判断しています)。
・私が旅行に行くことで、旅先の施設に与える心配や不安や迷惑(これも考えすぎなんだけど、例えば私が「関東からここ来ました!」と報告することで、お店の人に「こいつ関東から来やがった、怖っ、面倒っ」と判断されたり、他の人に「この店にはビフィダスの野郎が来たから怖いから近寄らんとこ」みたいに判断されたくない訳なのだ。これも考えすぎです。もし宿泊施設が関東圏の客を嫌がるのなら予約の時点で店側が拒否すればいいだけだし、巷にはすでに旅の報告が十分溢れているので、私一人それを控えたところで何にもならない)。
そんな訳で、隠密のように旅行して、帰ってきた訳です。その後2週間、体調変化はなかったので大丈夫だったろうとは思います。Cocoaもずっと前から入れてたよ。

●結局、後悔なく生きる為に現実的にできることをするしかない
結局のところ、「各々が対策し気をつける」というのがギリギリの現実的行動なのではないかと思います。客も、店も、できる範囲で、極力気をつけて対策していきながら、やる。その中で悔いなく生き、周囲への影響を考えながら幸福を掴んでいく。これしか出来ないし、これが推奨されているのだと思います。
活動性を完全停止の0にするのは原理的には安全だが持続不能。活動性を野放図の100にすると社会に病気が蔓延してこれもやばい。「病気の特性を知り、要点を守ることで、活動性の値を上げていって、以前の100とは違う形でも持続可能なラインにしていく」みたいなのが、現実的に我々が選べる落とし所といったところなのだと思います。
現実的な答えみたいなものが、0と100とを結ぶ単純な軸の上にはないと言うのも面白いです。「敵の特性を知り、そこを避けつつ他所で補う」みたいな対策に決着するの、個人的には好きです。人類の前向きな知恵を感じます。
…しかし、こういう知恵を、しばしば「0か100かのオピニオン」は隠蔽してしまいます。

●オピニオンは嫌だなあ
コロナの時期、「自粛はしなきゃいけないし働かなきゃいけないし、どうすればいいんじゃい!」「外出禁止のくせに通勤はしなきゃいけない、どうすんじゃい!」「自粛はしなきゃいけないし経済は回さなきゃいけないし、どうすればいいんじゃい!」「矛盾だ!」と苦しんだ方は多かったでしょうし、今も苦しんでいる方は多いことでしょう。
オピニオンというのは「従うべき正しさ」という顔を持っていますが、内実は「他者からの命令や非難」のようなものです。どこまで信用していいか知らん他人に毎日ビースカ怒られることで、脳味噌の判断能力が奪われていく。理不尽に叱られ続けた子供のように思考が萎縮してしまう。「自分は矛盾している、正しくあることができない」と自分を追い詰めたりしてしまう。自分を棚に上げるタイプの人だと「いけないんだ、先生に言ってやろ」みたいな精神性に落着したり、矛盾を指摘して喜ぶだけの皮肉屋みたいになってしまう。よくあることな予感がします。
矛盾した命題を突きつけられて苦しい気分になった時は、よう知らん他人のオピニオンを一旦置いておいて、自分の幸福を考えて、現実を眺めてみて、出来ることを探る、というの、結構重要なことだと、しみじみ思います。

●旅行
したい 
●トルコ料理
食べたい
●亡命ロシア料理
面白い
●三浦綾子『氷点』
めちゃ面白い。陽子がエロい。高木、好き。 

昔、地元の自動車教習所に通っていた頃、こんなことがあった。

自動車教習所の科目講習(というのかな、つまり教室での授業ね)は、けたたましいブザーと共に最初に教官が来て、半分くらい黒板とか教科書で講義を進めた後に残り半分で20分くらいの教材ビデオを流し、終わりぎわにまた教官が来てハンコ押して終わる(んだっけ)みたいな形で進む。
教習所は普通の学校と違い、参加者は「免許が欲しくて教習料を払った」という人たちばかりだし、もし授業をまともに聞いてない奴がいてもどうせその後の免許取得試験をパスしなければ困るのは本人な訳だから、こういうビデオ授業での放任みたいなことがある程度許されるのだろうし、教官も様々な層の集まる受講者に対し綿密な干渉はしない感じであった。

そんな放任的な世界の中で、ある時、教官が珍しく受講者を叱ったことがあった。
 
講習開始時、前の方の席で、爆睡している若者(ヤンキーな感じ)がいたのだ。 
見かねた教官がそいつに声をかけて起こした。
若者はようやくムクッと顔を上げる。
教官が怒った。「やる気がないなら帰れ!
若者は言う。「やる気はあります
教官がその反応に苛立ちを見せ、再度怒る。「やる気がないなら帰れ!
若者は繰り返す。「やる気はあります
その時私はその光景をどこから見ていたのか記憶していないが、その若者がすごく「キョトン」としていたことだけは覚えている。私が振り返ってその若者の顔を覗き込んだ訳はないので、若者の後ろ姿しか見ていなかった筈なのだが、多分、若者の口調とかが本当に一般的なキョトン声、というか、打っても打っても響かない感じだったから、そう印象づいてしまったのだろう。 
教官はしばらく怒気を孕んだ顔で押し黙っていたが、それ以上の問答は無駄と思ったのか、それ以上の授業の遅延は不味いと思ったのか、講義に戻った。その若者もそのまま机に向かっていた。

「やる気はあります」マンのこと、皆様はどう思いますか?

半数くらいの人は「やる気があるなら寝てんなよ」と苛立つのではありませんか?
さらにその内の1%くらいの人は「そう言われたなら帰る方がむしろ潔くてカッコいい」とか思っちゃったりするのではありませんか?

少なくとも当時の私は、「帰った方がカッコいい」とまでは思わなくても「やる気があるなら寝てんなよ」と思ってはいたんです。

僕ら(主語がでかい)は論理的矛盾が嫌い、というか、「言ってることとやってることが違う」「当人の口にする意気込みに対し、当人が実際やってることが全然足りてない」ことをものすごく嫌悪する傾向があるので、 こういう人を見るとものすごく苛立ったり、蔑んだり、しがちだと思うんです。
で、あまりにここの不整合が嫌いなために、「自分がこれをやってないなら、やる気がないんだ俺は」みたいな帳尻合わせさえしてしまいがちになると思うんです。
 
ですが、あれから100年くらいたった今、振り返ってみると、「やる気があってしがみついている人」というか「その時点での力は別にして、やる気があると表明できる人」が、その世界でちゃっかり生き延びていることって、よく見かけるんです。

やりたいことがあるので、その世界にいる」ことの方が、なんだかんだでその世界でのコネクションを得たり、親切な同業者や関係者のサポートを受けたりして、 その世界で伸びていく、ということ、結構ある(と思う)んです。
 
逆に、「夢には相応の力が備わるべきだみたいな実力主義者、不整合が嫌いな潔癖主義者の方が、世界や同業者集団に対してパワー勝負を仕掛けて、力が伸び悩んだ時に自分を支えるコネクションがないとかで燻ったり、孤立に喘いだり、途中でボッキリ折れて別の道へ行く、みたいなこと、多いと思うんです(統計とった訳じゃないんだけど)。

論理性を重視する、とか、不整合を嫌う、みたいなことって、実は「自分はカッコよく見られたい、誰かにツッコミをされたくない」という、ものすごく他人の目を気にしたムーブなんじゃないか。

一方の「やる気はあります」って、自分の目的を第一にした態度という意味では、よっぽど素直なのではないか。

「やる気はあります」と言い続けたあの若者は、その後どうあれ免許を取ることになることになるけど、あそこでスネたり不貞腐れたりしてたらきっと免許を取るのがずっと遅れていたんじゃないか。しかもその時は「あの時あのオッサンに叱られたせいで」みたいに、自分の人生の欠失を他人のせいにしている…

あの若者は、そういう意味ですげーしっかりしていたのかもしれない。

そんなことを、今になって思うのです。  
==
僕ら(主語がでかい)はテレビとかでもネットとかでも、ダメな他人とか他人の矛盾とかを見て苛立ったり怒ったり口を出したりするのが大好きだ。大好きなのだが、これをしてしまうことによって、グルグル回転する自分の人生の車軸に「知らぬ間に他人の目を気にする」という糸屑を自分で絡ませてしまうことになり、自分の人生にブレーキがかかる、という罠、ある気がした。

自分に恥を感じるとか、心臓あたりにあるプライドを司る臓器がギーギー悲鳴を上げて激痛に身悶えするとか、夜中に布団の中で絶叫するとか、そういう時は、この「自分で作った他人の目」が絡んでいることがものすごく多いので…
そういう時は「他人のことはどうでもいいので自分のやりたいことをやる」と、マントラみたいに唱えておいた方がいいのかもしれない。 

反省すべき事柄があったので、備忘がてら残しておきます。
==
反省点とかノウハウといった思想の塊というのは
自分の中でこねくり回しているうちに煮詰まるもので、
風邪シロップのように濃厚になりがちだ。

で、風邪シロップというのは風邪をひいたときに一口飲むなら美味しくもあるのだが、
蓄積した風邪シロップを他人にバケツでガバッと飲ませるというのは

よろしくない。

で、僕は何かと「全てをいっぺんに済ませたがる」傾向があるため、
仕事しながら溜まったノウハウや修正要望を
相手にガバッと伝えてしまう。
 
大変よろしくない、と反省した。

これ、自分が食らう立場だったら、
怨嗟の塊が数十行に渡ってズラーッと並んでいるように見えて
脳味噌と心臓が理解を拒否するであろうて。

==
●じゃあどうするか 

1、要望は チンタラ おずおず 砂山を耳かきでほじるように 吐露していこうね
2、思想は 薄めて たっぷりとした時間やお酒と共に 吐露していこうね
 

例えば自分が最高の料理を考えて、その研究のためにいろいろなものを食べたとする。
ステーキに感動し、寿司にも感動したとする。
それで、いざ自分が料理しようとしたときに

1、ステーキを焼いてから「寿司の味じゃない」と悩み、寿司を握ってから「ステーキの味がしない」と悩み、苦しむ

2、ステーキを焼きはじめながら「寿司の味を足さねば」と思い、よくわからない料理にしてしまい発狂する

こういうこと、わりとよく起きる。

これ、「整理ができていない、区分ができていない」ときに起きることであり、
必要なのは正しい区分であることがある。
「これはステーキの事柄だから」「これは寿司の事柄だから」と、きっちり区分することができれば、このごちゃまぜ病を回避することができる…筈だと今思っている。
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例えば…
「わかりやすい話、キャッチーな話」

「多くの読者に共感されやすい話」とは、
得てして排反する。
変な果物食って身体がゴムになった、どっかの世界の海賊志望の男子のお話と、打ち込んでいる趣味とかのない男子高校生の話とはちょっと感情移入の形が違うし、
三つ編みメガネぽっちゃり隠れビッチ委員長みたいな属性てんこもりヒロインのお話と、男性社会に打ちのめされて疲れた女子社員のお話とでは、感情移入の形が違う。読まれ方が違う。
(無論、山賊に叩きのめされ無力感に泣くルフィには感情移入できるし、隠れビッチ委員長に感情移入したりはするかもしれないけど、とりあえず「自分にも起こりそう」感は低い。)
これは選択の話、区分の話なのだ。
だが、ここをごちゃまぜにすると、「ルフィが海賊志望というのは動機として共感されづらいからルフィはどこにでもいる男子高校生にしよう」とか、はたまた「女子社員じゃキャッチーさが足りないから属性てんこ盛り隠れビッチ変態にしよう」みたいになり、すべてがぐちゃぐちゃになってしまう。
(じゃあルフィは共感不能の奴かというとそうでなくて、「海賊(シャンクス)への尊敬と憧れ」だとか「力のない自分への無力感」だとか「正義感」だとか、我々でも理解し共感できることが1話にみっちり詰め込まれているから、いいんだと思うんだ。)

「区分する」ということ、心にしっかり留めておきたい。
ここ数日の地獄のスランプの中で思ったことを書き留めておきました。

・ごちゃまぜ病はどういうときに起きるか
1、新しい方針を決めるためにインプットを増やしてしまった直後→つまり、インプットしたら適当に放置して腐らせてから使おうね。
2、乾坤一擲のアイデアを出さねばと焦っている時→この世に乾坤一擲の勝負というのは実はほとんどないにも関わらず、なんか他人の目とか期待とかを考えちゃったり、ブランクが長かったりするとこうなる。バンバン連作する状態に身を置くなり、プレッシャーとか感じずに球を投げられるといいよね。
3、多方面からの要請を全部満たさねばならないというような状況になっている時→ここ、扱いが難しい。「全てを満たす良いアイデア」みたいなのって、枝葉の先に身を結ぶことがあんまなくて、根本のあたりからニョキッと生えていることの方が多い気がする。アイデアに対して身軽でありたい…

ビフィダスです。
2、3、4月と原稿が重なっておりましたが、今ようやく一息つける状態になったので、
備忘がてら、この数ヶ月で生じたことをまとめておきます。

1、精神的低調
2月中盤からやっていたのは、
・夏コミ「北へ」 合同誌原稿
・夏コミオリジナル同人「星のない温泉」48p 3月20日入稿
・エンジェル倶楽部用新作読み切り20p 4月9日入稿
の作業だった。
「星のない温泉」はページ数が多く、すなわち純粋作業量が多かった。通常の倍くらいあった。
私は進捗を一定に保って走るようにしているので(毎晩進捗を記録しつつ目標を宣言しているのはそのため)、短距離だろうが長距離だろうが走るペースは変わらないのだが、
自分へのご褒美になっているのはやはり「完成・入稿の達成感」と「読者からの反応」ではある。
つまり、ゴールがいつもより遠いというだけで、完成の達成感は得られづらくなり、ましてや作品の提出や公開が遅れてレスポンスを頂けるまでの時間が延びるので、その間は不安と孤独(なんというか、暗闇の中、一人で間違った道を歩いてしまっている気がしてオロオロする感覚というか)がひたすら蓄積されていく。商業原稿の場合、編集さんが「バッチリじゃないですか」と言ってくださって、それでとりあえず速かに救われるのでいいのだが…。
今回はそういう意味ではかなり辛い数ヶ月だったように思う。というか、ここ数ヶ月の辛さを思い返すとこういう孤独感が強かった気がする。 
星のない温泉、面白かったら星とか感想とか頂戴ね・・・!
…だが、こういう不安みたいな精神的低調というもの、振り返ってみるとちょっと情けないところがある。
依存的というか、先生に褒められないと頑張れない優等生みたいなフニャフニャしたところがある。
本来は勉強であれ漫画であれ、自分の為になると思っていることなら、誰に何と言われようと粛々と自分のなすべき事が出来るものだし、
作家みたいな特殊な稼業はこういう「孤独に粛々と進めるパワー」みたいなのを誰もが持っているし、そもそもこれを持っていなければ始まらない仕事だ。
つまり、「自分の歩みが正しい方向に向かっているという自信・確信が揺らいでいる」というのが、今、私に生じている問題の根幹なのだ。
自分の内側から生じる確信みたいなもの、これが今、目減りしているっぽい訳なのだ。

2、自信の源
この内発的な確信、私が考えるに三つくらいの要素がある。

1・作風論。つまり「俺の出す作品はこのラインでいく、このラインには手ごたえがある(すでにある、もしくは、今後あるはず)」という中期的見通し。
2・工程論。作画、作劇に関する具体的な方法論。短期的、個別的指針。
3・キャリアプラン。「自分の仕事はどこに繋がっていくか、明るい未来が広がっているのか、手詰まりなのか、手詰まりならどう打開できるか」みたいな長期的見通し。

イメージとしては、飲食店をやりたい人だと…

1→どこでどんな店をやるのか、それは狙い目なのか。通勤客のために立ち食いそば屋を開くのか、有閑マダムのために小洒落たイタリアンを開くのか。
2→料理したり経営したりのプラン。秘密のレシピとか合理的キッチンとか最高の職人とか。内装外装とか宣伝とか。
3→それを一生の仕事にするのか否か、どうなりたいのか。10年先の自分は?このビジョンがないと、5年目くらいに鬱になりそう。

この三つが同時にしっかりしてないと、なんか上手くいかなさそうだし、やってる人は意識的であれ無意識的であれこの三つがしっかりしている予感がする。

今の自分はこの3点が同時にターニングポイントだったりピンチだったりの状態にある。

作風論:そもそもエンジェル倶楽部さん、失楽天さん、オリジナル同人シリーズで三つのラインを抱えている(つまり三つの異なる立地にそれぞれ飲食店を構えている感じだ)上に、三つのラインがちょうど更新時期にある。エンクラ→単行本がそろそろ出る。失楽天→単行本が出たばかりで、2冊目単行本の指針を決めていかねばならなくて、今までの自分をどう変えるのか、新しいことをするのか否か考えていて割と脳味噌が痛い。オリジナル→永遠に指針を更新していかないといけないので結構脳味噌が痛い。

工程論:近頃ここんところの手入れを疎かにしていて、無思慮に強引に作劇作画を推し進めてしまっている。インプットが減っている上に考察時間も減っていて、結果として手癖に頼りがちになる(手癖そのものは全然悪いことじゃないけど)。とにかく、鮭の稚魚みたいに自分の手持ちのエネルギーだけで走るのには限界がある。

キャリアプラン:雑誌人気→表紙→単行本→ビデオ化→アニメ化→フィギュア化、と、成年向け漫画家としての夢を叶えて来てしまって、次のでかい質的ステップがない。一般漫画のスカウトとかも来やがらない(他の人にはめっちゃ来てるっぽいのに!んいいーー!)。私が描いたらもうすごい面白い漫画を出せると思うのにどいつもこいつも見る目がありやがらん。まあ、これは私が描く準備が出来たら持ち込みでもなんでも自分で勝手にやるので相手を待つ必要はないのだけど。

…こんな感じで、ちょうど三つとも怪しい感じなのだ。

3、解決策
キャリアプランに関してはどうしようもない。今後は質的ステップを望めないので、量の向上と安定を求めねばならない(量にも限界があるんだけど、そもそも見上げる天井が全然高いので余地がありまくりだ)。望むべき作家像に近づくためにコツコツやっていく。
作風論に関しては、とにかく今は熟考が必要。熟考の時間をしっかり持つ。近頃作業ばっかりで考える時間が無くなっていた。
工程論に関しては結構難しい。
自分で問題に感じているのは、
・作画面:進捗を焦って、細かいところをババっと進めてしまう→真似したい作家先生の作品をぎっちり分析して方針を決めて作画していく→新しい刺激を得ることと、過去に刺激を受けた作品に立ち戻ること。まあ好きな作品を手元に置いておいて分析すること!新しいことを一つずつ試す!
・作劇面:作劇の構成というのはボーッとしているとどんどん収斂していくものなので、いいなーと思った作品の作劇的構成を分析してレパートリーとして保存しておく。レパートリーは三つあれば盤石と古事記にある。まあ好きな作品を手元に置いておいて分析すること!
・クオリティ面:「買いたい・読みたい・ナウい」と自分で一瞬で思った作品は全部買って、手元に置いておいて分析すること!
分析は人工の翼と古事記にもある。分析分析分析!

・痛感したこと
方法論というのは一度作ってもボーッとしていると意識されなくなってしまう。私もボーッとしてしまっていた。だから、この機会に方法論を振り返って、再インプットしつつついでに諸々手入れをしておきましょう。
あとは分析!!

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