ビフィダス牧場

サークルyogurt、ビフィダスの活動報告場です

コラム

この土日月、ものすごい面白い催しや出会いが重なり
頭がパンクしていて この栄養を消化するのに時間がかかりそうだから
今のうちに脳味噌に溜まってる硬い一まとまりの言葉の塊をひり出しておこうという寸法のコラムだよ。 
⭐︎今から書くことはあらゆる意味で愚痴ではないよ。金庫には鍵をかけようとか、トイレに行ったら手を洗おう、くらいの話だよ

 【成年向けエロ漫画雑誌の編集さんにやって欲しいこと】
1、事務面、連絡面について
●何かの企画や約束は、電話口で伝えたり確認したことであっても、とにかく必ず 文章の形でまとめて作家に送信し、記録を残していて欲しいよ
⭐︎守るおかげで生じるよいこと
 ・作家としても、忘れた時に確認できるよ
 ・後日、連絡ミスや見解の齟齬があった時などに、相互不信になるリスクを回避できるよ
 ・作家にとっても編集さんにとってもタスクの明文化になって、スケジュール管理に役立つよ
 ・事務面の律儀さはビジネス関係の基礎だよ 安心の源だよ
 ・掲載時期含め、締め切りのある仕事の話とかは、確認という意味でも心理的な意味でもこういう共有はありがたいよ
守らないせいで生じるわるいこと
 ・口約束は作家も編集も忘れるよ それが単行本販促みたいに「時機を逃さないことが大事」な事柄だと、目も当てられないよ
 ・出版社側の企画の詳細が作家に示されないせいで、作家がやった仕事(サイン本とか色紙とか)が何に使われるのかよくわからないまま企画が進んでいくことがあると、作家としてはすごーく気まずいし編集全体に不信感が湧くよ それが巡り巡ってお客さんの損になることがなるよ
 ・作家が編集に頼らずに広報とかやり始めたら、雑誌から離れていく前兆だと思うよ

2、日常的な事柄について
●頼むから漫画でも文学でも映画でもドラマでも、作品にちゃんと触れて知っていて欲しいよ 
⭐︎守るおかげで生じるよいこと
 ・「作家にとって既知のことが、編集の無知ゆえに拒絶される」という最低最悪の地獄状況が回避できるよ これは逆がないよ、つまり「編集が作家より知りすぎているせいで作品が損をする」ことは、ないよ
 ・漫画の表現方法や演出、脚本に関して、作家の前衛的・先取的な提案に積極的な対応が出来るようになって、作品の質を高められるし、その時に作家の信用を増せるよ
 ・作品内容に対する意見がある時、指摘に具体性を増やせるよ 「いろいろ引き出しがある」のは何かをより分かりやすく伝えるのに便利だよ
★守らないせいで生じるわるいこと
 ・まあ軽蔑されるよ 作品を世に送り出す時の一番最初の通過点が信用できないってのは、かなりまずいよ 作家に共同制作者がいるならいいかもしれないけど

●仕事上のことで何かミスがあって謝る時はしっかり謝って欲しいよ
⭐︎守るおかげで生じるよいこと
 ・普通だよ
★守らないせいで生じるわるいこと
 ・まあ、考えてみれば「謝り方が悪いと感じられている状況」って、それ以前の段階ですでに決定的に信用や信頼がない気がするので、謝り方だけ変えれば済む問題かというと怪しいよ

3、スカウトについて
●頼むから、いいなと思った作家をスカウトして欲しいよ
⭐︎守るおかげで生じる良いこと
 ・作家をノセ易いと思うし元気付け易いと思うよ
★守らないせいで生じるわるいこと
 ・まあ、あまりに反応が淡白だと、「なんなんこいつ」ってなることは多いよ その状態で読者アンケートや感想を作家に伝えない場合、作家は「誰からも反応がない状態で作品を作り続け、作品の中長期的方向性を自分で定める」という地獄のタスクを背負い込むことになるよ よっぽど自分に確信があって戦略性を持ってる作家でない限りは迷うよ 見渡すどこにも塔の立っていないオープンワールドゲームみたいなもんだよ

4、打ち合わせや雑談について
●…まあここは明文化しないことにするよ

あけましておめでとうございます。
旧年はご支援・ご応援頂き、ありがとうございました。
今年もよろしくお願いします。

旧年は、
・電子同人の大当たり
・同人作品のグッズ化
・同人作品の実写AV化
・三冊目の単行本『情交の日々』発売
など、様々なことがありました。
特に、単行本三冊目というのを私は、自分の作家生命が続くか絶たれるかの分水嶺と考えていたので(私は商業の仕事を割と重視している)
今回の単行本の売れ方を注視しています。多分セーフラインは超えているとは思っているのですが、販売データが私の方に全然入って来ないので、わからない!紙でも電子でも、買ってね! http://yogurtbifidus.blog.jp/archives/81560736.html
紙の本の売れ方に気を揉むというのも最早、「本が読まれるあり方」の現状とは即していないのかもしれませんが、それでも気にしてしまいます。

さて、今日はせっかくなので、今年の抱負を考えつつ、商業誌と同人誌との兼ね合いについて思うところを書ければと思います。

・ラジオ配信をやろうとおもっていたけれどやめた
年末に、自分でラジオをしながら好きな漫画とか面白い漫画の面白さについて紹介したり分析したりするというのをやろうかと考えていたのですが、
ラジオに気を取られている時に作品構想でスランプに陥ったため、一旦白紙にしました。
私はどうやらエネルギー内圧を一点集中で放出するタイプらしく、別の蛇口を開いてしまうと創作に影響が出るっぽいですね。まだまだ漫画で描きたいことがいっぱいあるので、そちらを頑張ります。
ただ、考え方を記録に残しておく&新しい刺激を得る癖をつける&心地よい話し方や心地よい考え方を身につける習慣づけとして、配信は有意義な、そして緊張感ある営みになるとは思っています。

・今年は単行本4冊目が出る年
になります。エンジェル倶楽部誌で描いていた作品が、今年には単行本一冊分貯まる計算になるのです(ちょー面白い本になるよ!)。
が、単行本発売は一年以上は間を開けないと読者の方が疲れてしまって売れ行きが下がると古事記にあるので、雑誌掲載計画と単行本作業時期は悩みどころです。
今年の年末目掛けて、スケジュール含めて編集さんと相談しつつ決めていきましょう。
1月末発売のエンジェル倶楽部に掲載される私の新作、チョー面白いよ!読んでね!
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・今年は年収を高める
去年、貯蓄を大きく失うことがあった上に、税金をかなりの高額払うことになる予感なので、今年は安定的に収入を得ることができるように頑張りたい所存です。オリジナル同人も積極的に出しますが、新しい発信の仕方も考えています。画策。

・やりたい事が決まった
今回は3冊目の単行本が出るに際し、編集さんとの意思疎通の齟齬がアホみたいに重なった為、雑誌の仕事の一つに関する意欲がボロクソに低減していました。
元から描いていた雑誌でものすごく面白いことを思いついてしまい、早く描きたいのと、
オリジナル同人でも描きたいことがめちゃあるのとで、
「ここから更に生産ラインを作るイメージがないな、三方面作戦はキツいな」とも感じていました。
作家は、「ワクワクするような思いつきが生まれていない」&「編集さんへの不信」とが重なると(この二つは連動する事が多い)、まあ、ものすごくやる気が失せて、スーッと活動舞台を移していくものなのですが(働き甲斐を感じず、人間関係も悪いとなれば、誰だってそんな職場には居たくないでしょう)、
しばらく考えているうちに面白いテーマが決まり、勝手にワクワクし始めたので、適宜スケジュールを組み立てて仕事をしていければと考えています。
作家と編集さんは持ちつ持たれつの共同作業のこともあれば、作家が編集さんと無関係に勝手にモチベーションを持って働くパターンもあり、今回の僕は後者のようです。
他人のせいにしてクサクサ生きるのはつまらないので(本当つまらない)、あんま他人に期待したり依存したりせず自分で粛々と楽しいことをやるということ、出来る範囲で、そして出来るうちは、していきたいです。こういう考え方も、幸運に恵まれた結果に過ぎないのでしょうけど。

・商業雑誌と同人活動
作家が商業誌で活動する意義とは何か、と考えると、難しいものがあります。
成年向け作家に関しては、掲載ペースの緩さからして、商業誌一本で生きるよりも同人を並行した方がいいとは思いますし、同人一本で活躍されている作家さんも多いです。
ただ、僕自身は少し雑誌に拘っているところもあります。
僕自身が現状、雑誌に感じている魅力は何なんだろう。それは本当に本質的なことなのか。それ含め、以下に列挙しつつ検討してみます。

1、定期的に作品を作るのがそもそも好き→無論、同人でも定期的に制作はできます。
2、定期的に原稿料という固定収入が生じるのがいい→原稿料と同人の売り上げを天秤にかけた時にどうなるかという問題はあります。ただ、「商業のペースで同人を作ればいいじゃないか」と聞かれると、そこはよくわかりません。難しい。例えば作風が固有過ぎる先生の作品とかは、読むと疲れるからあんま連続して作品を出されると嫌になる、とかあるかもしれない。毎日が豪華料理だと、ある時点からその豪華料理が嫌いになることがある。
3、商業作品は同人作品に比べてバリエーションを作りやすく、作品の振れ幅を持たせ易い。→これは僕の考えに過ぎません。同人作品でも作品バリエーションは作ろうと思えば作れます。
 また、「商業誌であれ同人であれ一人の魅力的な作家に作品バリエーションはあんま望まれていないでしょう、お気に入りのAV女優さんの顔が毎回変わったら嫌じゃないですか」という見解もあり、悩み中です。
 僕自身が、描いてて飽きたり詰まらなくなったり「これ飽きられてないか」と不安になったりするのが嫌だからなあ・・・でも、そういう悩みが読者の方には望まれてない、ってことがあるのなら、難しいことだ・・・うーむ。いや、160キロの球をど真ん中に投げ続けて勝つ投手もいれば、肩が弱くてもコースを投げ分けて勝つ投手もいるんや。球の投げ方は人ごとにいろいろあってええんや。
4、雑誌は全国に流通するので、多くの人に作品が届く→これも怪しい話です。部数の話は置いといて(雑誌を定期的に買う読者の方がいるのだから部数はどうでもいい)、雑誌を買う人それぞれの顔が、作家には全然実感できない(雑誌というのがそもそも多くの人に情報を届けるためのものなので、顔が見えなくなるのは当然なのだけど)ので、読者の方のご応援が作家のパワーとして摂取吸収されづらいというのは、不幸かな、あります(コミケはその点、来てくださった方からいただけるパワーが本当すごいんです)。(←追記 雑誌へのアンケート感想ってあるじゃないですか。それについても、作家に対する伝達を綿密に行う編集部と、そうでない編集部とがあり、そうでないところに対して「くれ」と要求してもそういう編集部は意見集約が全然システム化されていないので口頭で読み上げて作家に伝えておしまい、次からもなし、みたいになりがちです。うんち。)また、電子配信が増えていて、流通媒体としての紙の雑誌にこだわる意義は、減っている、のかも、しれません。データがないのでわかりませんが。ただ、雑誌を定期的に買って下さる読者の方がいらっしゃるのだから、そこに向けて作品を作ることからはブレないでいい、とも思います。
5、雑誌がカラーを持っていて、その中で立ち位置を持ちつつ作品発表できることが楽しい→これは、今ものすごく感じていることです。
雑誌というのが、イケスのように趣味趣向・その作家・その読者の皆様を、囲いながら育て守る、という面は確実にあると思います。週刊少年誌に散らばるスポーツ漫画枠のように、「その雑誌の中でスポーツ漫画の看板を背負う」という仕方でサッカー漫画、バスケ漫画、バレーボール漫画とかが並行的に共存し、ジャンルを維持し、栄えさせる、という面は、あるように感じます。
成年向け雑誌ですと、作家が雑誌掛け持ちをすることで、もしくは雑誌が既に他誌で活躍中の作家を招くことで、「囲いを作ってカラーを出す」という機能が崩れがちになっている感はありますが(これ、作家にとっても良いことじゃないと思うんだなあ)、エンジェル倶楽部誌などはすごくしっかりとカラーがあるので、その中で作品を発表することがとても、とても楽しいですね。
この一点の為にも、私は雑誌という形態を守りたいと考えています。イケスがなくなって全ての作品と読者と作家が一つの海に放流されたら、多分、一番ダメージをくらうのは「多様性」な気がする。確信はないけど、恐れてはいます。まあ、電子雑誌にスライドして多様性は普通に存続する、って気もしますしね。わかりません。
6、雑誌で描くと、漫画の内容指導のプロフェッショナルである編集さんと二人三脚で作品を作ることになるので、自らの作品の質を高め作家としての魅力を高めていくことが出来る→これも本来は最大の魅力の一つだったはずです。
作家というのはたまたま「漫画を描く」という謎のレアスキルを持ったレアモンスターのようなものです。偏った存在です。これに「生産性」だの「経営戦略」だの「広告戦略」だの「販売戦略」だのを付与して、莫大な価値へと磨き上げるのが編集という業務という気はします。そういう戦略性を作家本人に求める風潮って、酷なんじゃないか、分業した方が効率的なんじゃないか、ゲームだって制作と販売は別だというのに、とは思います。まあ、スキルを全部持ってる人は勝手に一人で作品を作って売りながら勝手に成長していくのでしょうけど。
そもそも、「漫画を描く」というスキル自体が、複合スキルです。表現意欲、構想、作画、脚本(短期と長期)、演出、安定的生産性、心理的安定や環境的安定、全部兼ね備えて初めて「漫画を描く」というスキルになり、どれかが一つ欠けるだけで、価値が激減してしまいます。醤油とワサビのない刺身とか、ライスのないカレーとか、塩を入れ忘れたスープとか、小石の混じったスープとか、量の少ない丼とか、そういうことが往々にしてあるのが漫画です。というか、そもそも「漫画が好きで漫画だけ描いてきた人」より「何か熱中する趣味や経験があって、ついでに漫画も描けるようになった人」の方が作家として活躍している気がするので、「漫画を描く」というスキルは罠スキルなんじゃないかとすら思います。
そういう、「もうちょっと部品があれば空を飛び莫大な価値を生み出すかもしれない未完成のロケット」に、部品を与えて共に作り上げる役割があるとしたら、それは編集さんしかいないんじゃないか、と思います。刺身に醤油とワサビを足す。カレーにライスを添えるかパン生地で包んで揚げる。塩を加えたり小石を取り除く。量を増やして満足感を増やす。ティンクルポポを星のカービィにする。そういう風なノウハウを持っている人がいるとしたら、漫画制作と販売の両方に携わり、専門的経験と試行錯誤の積み重ねのある、編集さんが一番近い位置にいるんじゃないの、と僕は思います。
が、なんか近頃の話を聞いていると、「スカウトした作家のことが好きで、その作家の魅力を伸ばし技術を指導しつつ売れるようにも配慮して、人気作家・看板作家にし、更には自立を補助する」みたいな編集さんの話は、かなり稀にしか耳にしません。編集部の中でノウハウの共有・供与すら無さそうな話も耳にしていて、「漫画家がこんな必死こいて頑張ってるのに、なんなん」とすら思ってしまいます。
「成年漫画に関しては、ここ数年で『売れるノウハウ』がぐちゃぐちゃになって通用しなくなったため、編集さんは作家に内容的指導がしづらくなった」という話も聞いて、ほんげー、ともなりました。
あと、活動的な編集さんは雑誌を飛び越えて同人誌制作とかに携わるケースがあるみたいなので、いよいよ雑誌のアドバンテージが怪しい。
今年はいろいろな編集さんにお話を聞いてみたいですね。単純な興味で、ノウハウを知りたい。
・・・ただ、何にせよ、「作家の力を伸ばして、より多くの読者の方に作品を届け、世界に喜びを増やす」という目的意識は、編集さんと、共有しときてえよなあ、と思います。これが共有できてない時の不信感たるや。
7、自分をスカウトしてくれて、作家として伸ばしてくれた雑誌と編集さんとその読者の皆様に恩義がある→あります

… こう列挙してみると、結局僕が商業誌で頑張っているのは「雑誌に恩があるから」「雑誌の存在が、表現世界の多様性と豊かさに寄与するところがある気がするから」というところに落ち着きそうですね。
漫画というフィールドの面白さと多様性に僕自身も何かしらの仕方で寄与出来るよう、頑張れたらと思います。


追記
電子同人や電子雑誌の最大の致命的欠点が、「後出し表現規制にべらぼうに弱い」ところです。クレカ会社がノーを言えば、これまで栄えていた一つのジャンルが翌日には根こそぎ廃墟になっている、ということが、あるし、あり得るのです。
電子は万能薬でも作家にとっての救世主でもないと僕は考えます。ミクロな利点はあれ、表現全体に対してのマクロな影響としてはどうかな…という考えです。
雑誌や即売会イベントといった旧来の物質的な販売形態を、僕は堅守する側に居たいところです。紙の単行本とかの販路を僕が重視している理由の一つもここです。

ビフィダスです。5月頭から休みを取っているつもりなのですが、
全然休めた気がしないのは僕が北海道に行っていないからでしょうね。
取材に行きたいが…

さて、私の中での最新作にあたる失楽天掲載「香リ合ワセ」
自分の中でもかなり性質の悪いストレスの中作業を進めた作品で、結果として作家生命にダメージを負い、おかげで今ダラダラと休みの時間を設けているのですが、
その切迫した作業の中で、我ながら「あっ」と感じたことがあったので、備忘を兼ねて残しておきます。
==
「今日頑張れば明日には入稿できる、そしたらGW巨大連休前の編集さんを楽させてあげられる」みたいな不思議な義務感のもと、ヘコヘコと仕上げ作業を行っていた時のこと。
仕上げ作業というのは、ペンを入れた原稿に更にトーン(白でも黒でもない灰色のとこね)を貼り終えて、
ここからフキダシ(セリフを囲っているフワフワ丸いヤツね)とか効果描き文字(ドドドとかギシギシとかそういうの)を入れ、
セリフもその際に「多過ぎる」とか「なんか通りが悪い」とかで手を入れる、まあ読者の読み味を想定しての最終チェックのようなことをする作業行程なのですが、
その折、次のコマでふと気づきました。
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男が女に覆いかぶさりながら会話をしているシーンです。
…ヘンですよね?これがヘンということを、私は仕上げの段階でやっと気づくことが出来た訳です。
わかりますか?皆様にはわかるでしょうけど、描いている当人がわからなかった。本当、漫画の描き方初心者レベルみたいなことなのに、気づかなかった。
間をおきます。





はい。

二つのフキダシのうちの最初のセリフを、男と女のどちらが喋っているのかが、分からない。

この二人、顔の位置が近接しすぎているので、フキダシのトンガリ(正式名称を知らないけど、セリフを喋る人物の位置とか口の位置を示す尖ったパーツね)だけではセリフの喋り主を識別出来ないのです。
純粋にセリフだけ見てみると、二~三行目を見れば、「なにかの感想を言っていて、それは男側が言ってるセリフらしい」ことは想像できます。
が、問題は、セリフの一行目です。
「なんか」の時点では、このフキダシのセリフが誰に所属するのかが明確でない。
となると、読みながら読者の皆様は、この「なんか」のセリフを男の声で理解するべきか女の声で理解するべきか「わからない」ことになる訳です。
これは不味い。
描いている当人は「このセリフは男のモノ」と最初から知っているので、こういうことを見過ごしがちになってしまうんです。

これに気づいて筆が止まりました。さてどうしよう。
その時考慮した策をいくつか順に提示しておきます。
1、前後の脈絡をいじって、このコマのセリフがどう読んでも男が喋ってるターンであるように示す
→トーンまで貼り終えた前後のコマや流れをいじるのは高コストで、しかも読み口に害をなす可能性がある高リスクな方法なので却下。仕上げの時に手を入れるのは最小限のことでありたいマン。何故なら締め切り間際で思考力が落ち自信も無くなっている時に慌てて何かをいじると、全体の調和を大きく乱してそれに気づかないことが多いから。
ちなみに…
参考
大ゴマの右上とか大ゴマの直前に小さいコマで話し手の顔とセリフを入れて、次の大ゴマでのセリフ主をはっきりさせる手というのはあって、これはそこらじゅうで割と使われている気はする。
大ゴマの右上だと、こんな感じ。
参考3
大ゴマの直前だと、こう。
参考2
2、絵を差し替えて、男と女の顔が離れた構図にする
→トーンまで貼り終えた大ゴマを締め切り間近で変えるのはイヤなので却下。
3、フキダシのトンガリをニョイーンっと伸ばす
参考4
フキダシのトンガリを適切な仕方で伸ばすことや、フキダシ位置を適切な位置に動かして読みやすくするというのはスーパー基本的で良い手だとは思うのだけど、
絵や画面との兼ね合いでその手が使えないってことは、あります。仕方ないね。
今作では却下。
4、フキダシの中に、キャラの名前だとかデフォルメ顔とかを入れて話し主を明示する
参考5
セリフしかないコマとか、人物の多いスポーツ漫画の多人数発言シーン・解説シーンだとよくあるケースだけど、これも私の今作の画面には合わないし、画面情報量的にも煩わしい&合わないので却下。
5、男のフキダシの形や色を変えて差別化する
参考6
これもよくある手だが、こういう場合Cのセリフは前後から黒フキダシになってる、みたいな文脈的統一性がないと成立しないので、僕の今回の作品ではあまり使いたくない。
あと、フキダシの色が黒い場合は発言状況や発言人物が特殊というイメージ(NPCとか、悪の存在だとか、竿役おじさんとか、あとは物凄くどす黒い一言とか)があるので、ちょっとここでは使いたくない。別にこれは約束事はないので上手くやれば使えるとは思うけど。

じゃあどうしたのかというと…
まあつまり、フキダシに工夫をせずに、発話者を明示する為に有用だと思ったことをやりました。
その内容は…本誌をご確認いただけると嬉しく存じます(販促ムーブ)。
コミフロはこちら!https://komiflo.com/comics/5348

いかんせん、
ネームの時点で気づいていなかった自分が悪いということではあるのですが、
ネームが比較的乱雑でもチェックを通ってしまうケースは結構あると思う(作家がデビューして間もないとかデビュー前とかだと、編集さんに徹底指導される内容だとは思うが、編集さんに基礎的なことをある程度教えてもらったら、あとは自分でチェックすべきだと思うのでやっぱ私が悪い)し、
あと、線画のチェックを入れてもらう際には作業行程の都合上、セリフを出力しないまま編集さんに提出してしまうことがあるので、
結局、作家自身がしっかりチェックするしかないことな気がする。

危なかった。
漫画を皆様にお届けする際には本当小さくも重要な苦労があるということに、しみじみ気づかされたというお話です。
==
漫画って、どこか読みづらい箇所があると、その瞬間に気づかぬうちに心の歯車が作品から1mm1mm離れていって、やがて目と脳が画面からスゥーッと離れていってしまうというケースがあるので本当怖いと思う。
一方、読みづらいくせに、何度も何度も繰り返して謎を解くように読んでしまい、グイグイ引き込まれてしまう作品というのもあって、ワタモテとかがそれだと思う。でもそれも、ワタモテが「心の謎を提示し、それを解く」という構成で出来た物語だからというところが大きい気がするので、「読みづらい作品ほどみんな読み返してくれる」みたいなことでは決してないと思う。思う思う。全部推測で全部仮説だけど、この仮説はかなり耐久性の高い仮説なので僕は暫定的に信じている。
漫画ってほんっとーに面白いですね。

先日、札幌雪まつりに行き、本屋さんとか古本屋さんとかを見て回っていた。
古本屋だと、北海道大学の前に猫のいる古本屋さんがあって、そこが結構、暖房が効いてるし猫がいるので好きなのだ。
さて、売られている本をザラーッと眺めていると、一般書店の店頭に並ぶものなら、大体こんな感じで分類できそうな気がしてくる。
1、有名作者であることがウリの本 つまり作家が有名だから売る/買う。文芸書とかは基本これ。
2、作者の権威がウリの本 なんかの新書とかアドバイス書で、本の表紙に「著者 ○○大学教授」とか書かれてる奴。文芸書とビジネス書の狭間にある実用新書とかはこれが多い気がする。
3、目的・用途がウリの本 ビジネスの本、財テクの本、健康の本みたいな奴で、タイトルは文字がドドンと出る。新書からさらに砕けた、ビジネス新書系の本とかコンビニ売りビジネス書/健康書とかはこれが多い気がする。
何となく見当つくでしょう。ちなみに、1と2は近いし、2と3は近い。
・・・
で、僕はエロ漫画畑の人間なのでついつい全部を自分にひきつけて考えてしまう訳なのだが、
様々な本の表紙を見ながら、ふと考えてしまった。
「あれ、2と3のケースって、作家の名前を僕は認識できているだろうか?」
2の場合、重要なのは本を権威付ける肩書きの方だ。「○○大学教授」の肩書きの方が意味が強い。
3に至っては、ようしらん著者の本でも、なんか表紙で堂々と「デキル大人はSNSでしょっちゅうチンコとか叫ぶ」とか言われたらついついそんな気がして手に取ってしまいそうなものだ。
古本屋とは、そうして売られた本が時代の表層を流れ落ちてもう一度集まる場所なのだ。だから、一昔前に見かけた本をそこで再び見つけた時、ちょっとセンチな気分になるのだ。
・・・だが、そのうちこんな考えが持ち上がってきた。
「作家として、作者の名前を覚えてもらうことというのは、本を売ることにとってどれくらい必要なことなのだろう?」
例えば3のケースは、本を出す側としては、どっかの誰かがそれらしい内容の本を堂々と書いて、責任を負ってくれて、それが売れそうなら何だっていいし、売れそうなタイトルにして表紙にメッセージをドンと付けて売るのだから、「あの有名な本を書いた著者です!」みたいな売り込みは不要だ。
2だって分かったもんじゃない。
そもそも人間というのはどれほど頑張っても所詮ちっぽけな存在なので、書いたことが後で(もしくは最初から)間違ってたってことは仕方がないことだし(たまったもんじゃないけど)、知的責任みたいなものは負いきれない。出た本の誤りを指摘し、その著者の責任を追及する、みたいな動きはものすごく後ろ向きで非生産的なので、あんまみんなやりたがらない。それよりは売れそうなキャッチーな本をバリバリ書いておぜぜを稼ぎたいというのが人情だ(誠実な側がバカを見るというどうにも嫌な状況なんだが)。
つまり、「著者を覚えてもらうこと/著者の名前の持つ信頼性」みたいなことは、ある種の新書・ビジネス書とかにはあんま求められていない、のだ。

・・・こういうことを考えると、ちょっとクラッと来てしまう。
というのも、これまでの話は「本を売る・買う側」の話だからだ。
では「本を書く側」に当てはめるとどうなのか。これ考えると暗澹たる気分になりませんか?
本を書く側の持つビジョンというのは大体こんなもんじゃないだろうか。
「自分という作者の存在が認知されて、人気作家になり、自分が本を出すたびファンがついて来てくれる」
だが、例えば「認知」の段階はどうなのか。・・・一人の作家が実績を積み上げて有名作家になる、というルートはどこにあるのだろう。なんかの新人賞とかを取って、鳴り物入りで売ってもらう、みたいなことをするのだろうか。新人賞って年に何人輩出されるのだ。
本を出すに至る為に信頼と実績を積み重ねる、そのための場所って、どこにあるんだろうか。(ジャンプとかエンジェル倶楽部みたいに雑誌とかあるのか。僕は文芸雑誌を読まない!!コミケの文学ジャンルとか渋とかからスカウトされるのかな。わかんね。教えて!)
もしくは、学者や芸能人が本を出すように、既に別ジャンルで知名度を稼いでからにする、みたいなことをするのだろうか。
しかもその上、「作者名とかどうでもよく、兎に角時代のニーズに即した本を作ってくれた方が出版社としても書店としてもありがたく、現状そういう本はずーっと出続けている」という状況は存在する。書店で動いている本のどれくらいのパーセンテージがこれなのか、数値は知らないが、面積的には結構多いんだから多いんだろう。
坂本ジュリエッタみたいに、ゴーストライターとして働き、依頼に即してありとあらゆるジャンルの本を見境無くバリバリ書くという姿だってありえるのだが、それは坂本ジュリエッタが天才かつ変人だからできることのような気もする。最初からジュリエッタを目指す作家、ジュリエッタ的な才能を自覚している人って、どれだけいるのだろう。
・・・ちなみにこういうこと、「小説家になろう」(という小説投稿SNS、というのかな)ではとっくのとうちゃんに普通にある(と、知人の先生に聞いたことがある。聞いたのが1,2年前の話なので情報が古いかもしれない)。
つまり、作家志望者が作品を投稿する。ある程度やって人気が出なかったら、筆名を放棄して、新たな作者としてもう一度最初からやる。当たるまでやる、というものだ。人気の出なかった過去の筆名はイメージを落とすのでとっとと切ってしまうというのだ。こういう小説ではタイトルの方を極力目立たせ説明的にする、というのも、この動きに適っている気がする。作者名よりもタイトルの方がずーっと重要なのだ。
「作品名が表に出れば出るほど、著者名は後退する」・・・というのが、ネット小説にもビジネス書にも当てはまりそうな気さえする。
そして、
「自分という作者の存在が認知されて、人気作家になり、自分が本を出すたびファンがついて来てくれる」という素朴なビジョンは、何だか雑誌文化とかがエスカレーターとして機能していた頃の名残のようにさえ感じられてしまう。
兎に角、時代は流れていく。空港の公衆電話スペースは電源スペースに入れ替わった。作家だって生きる仕方を自分で握って考えていかねばならない。作家という意味では恐らく昔の方がもっとひどかった。作品発表機会が雑誌しかなかったんだから。今は恵まれた時代だ。だから、どういう恵まれ方なのかを考えねばならない。
・・・
こう考えていくと、
全ての事柄が
作家として生きる、というのは何を目指すことなのか、
作家として成功する、というのは何を目指すことなのか、
ということに集約していくように思われてしまう。
作家寿命は何年か。1年?10年?20年?20年だと25歳の人が45歳になる計算だ。
有名作家になって、出す作品出す作品がスマッシュヒットするような作家になりたいのか。その後はどうなるのか。東山アキコ先生とか金田一蓮十郎先生とか本当すごいと思う。何であんなパカパカ描けるのだ。
ジャンプの長期連載みたいに、一つの作品を大あてして、その作品に作家寿命の全てを費やす形にしたいのか。それは狙ってできるのか。それが終わったらその後はどうなるのか。
兎に角一つの作品を当てて(当てたいね)、じゃあそれをどこまで持っていくのか。当たるとは何を意味するのか。一時的な注目なのか、本を出せればOKなのか、本をどれだけの間出せるのか。本以外の、発表の形式はあるのか。またそれは生計をどれほど保障するのか。アニメ化とかドラマ化とかしたいのか。その後はどうなるのか。
作家名なんかどうでもよくて、その時代のニーズを駆け抜けるという作り方・売り方は、自分にできるのか。何年走れるのか。
タイトルを愛されたいのか。
テーマ性を愛されたいのか。
作家性を愛されたいのか。
作家名を愛されたいのか。

ここら辺のこと、書く側・描く側がきっちり考えてやっておかないと・・・
この、恵まれながらも不安の蔓延する時代で、不本意な踊り方をすることになってしまう人が沢山出てきてしまい悲しいことになるんじゃないかな、
と、ちょっと思った。
「作品タイトルはアピールされているのに作家の個性は認識されていない」とか、その逆とか、そういうのって多分その当人にとってはとっても不本意な状況である予感がするじゃあないですか。悲しいじゃないですか。悲しいかどうかは当人が決めることだから僕の関知するところじゃないっちゃあそうなのだけど。

古本屋は10年20年の本の歴史が背表紙になって通覧できる。だからついセンチな気分になって、こういうことを考えてしまうのでした。
==
ちなみに、札幌の文教堂だと、目立つ棚には結構ちょっと政治色の強い本が多くて、それは札幌を取り巻く政治的危機感みたいなものに触発されて産まれたコーナーのようでもあるので、こういう売り方って漫画じゃ出来ないから羨ましいよなーと思ったりしたし、
漫画って結構、なんというか、時代の表層に左右されない根のしっかり張った頑健な娯楽文化なんじゃないかとかも思ったりもして、少しホッコリした。

s0
失楽天に掲載させて頂きましたこの作品「ミユキ姉のソファー」
(コミフロでのリンクはコチラ!読んでね!→)https://komiflo.com/comics/4469
(あ、電子アンケートもあるのでよろすくね!→https://www.wani.com/product/13878_s/
について、思い出したことがあったので備忘がてら記述しておきます。
このヒロインのミユキさんは、キャラデザインと基本構想だけは7月くらいに既に出来ていました。s174
↑編集さんに提出したラフ。この段階で「でかくてだらしないボデーの女の子を描く、その女の子は基本内向的だが家の中で出会う主人公に対してだけは素の態度が出る」というコンセプトが明確だった。
で、このヒロイン像を僕は気に入って、
「隣の家のだらしないお姉さんがスキだらけで寝ている時に、ひっそりイタズラする」という話の構想を立ち上げたのです。
そのとき、編集さんから頂いたアドバイスがこうでした。
編集さん「お隣さんだと関係性が弱い気がするので、従姉妹とかにしませんか」
私「なるほど(←あまりに安易な同調) そうしてみましょうか」

この提案を僕が受諾してから、このネームは一切が止まりました。
二人の関係性と出会いのシチュエーションという、話の根幹・前提・土台が変わってしまったので、その上に立っていた道中~帰結までの流れ、ウッスラ考えていた「描きたいポイント」がゼンブ息の根を止められてしまったのです。
揺らいだ土台からは、アイデアの枝葉がバラバラに生えてくる。このまとまらない思いつきの集合体の量が、いよいよ精神を圧迫する。どの枝葉を切れば幹が通るのかが、ある時点から完璧に見えなくなってしまう。
結果、スケジュールのデッドラインになって構想全撤回・再提出したのが、「もてなしの湯」となります。

「もてなしの湯」を描いた後も、生み出したヒロイン像(むちむちはどーしても描きたい)は頭から離れないので、この子の魂に肉体を与えて脳の牢獄から解放してやる為にも、再度ネームに挑戦しました。
が、やはり焦点が定まらない。
で、スケジュールのデッドラインになって、話の前提をあれこれ組み替えたり要素を整理したりして、従姉妹という設定を「なんか導入がかったるい」と感じて「お隣さん」にしたところ…
一気に話が出来上がりました。
そして、後々になって自分の難航の理由を確認すべく振り返って考えていた際に、
「あ、これ最初の構想に戻っただけだった!」と気づいたのでした。
これは大変教訓に富む気づきとなりました。

思うに、物語の着想となる最初のひらめきというのは、複数のアイデアのワンセットなのでしょう。
そのワンセットのアイデアたちは強固な直感性を持ちながら緩やかに親和していて、
思いつきでいじってしまうと、親和性が失われておおもとのパワフルな直感性ごとダメになってしまう…。(例えば…カレーという着想には、味の強いカレーソースその味を受け止めつつボリュームの主体を担う温かくて柔らかいライスアクセントたる福神漬けがワンセットになっていて、そのライスを「ライスより大根おろしの方が健康に良さそう、白いし」とかいって差し替えてしまうと、おおもとの食べたいものではなくなってしまう訳だ。)
この、最初のひらめきの時点で、パワフルなアイデアのワンセットをどこまでガッチリ作れるかが、読み切りを構想する上でのキモではないか、とか考えてしまいますね。

あと、人のアドバイスは話半分で聞いておけ、という教訓も得られました。話半分という態度って実は物凄く良いことな気がする。「参考になるなら取り入れるし、そうでなければ省みない」というの、アイデアマンのキモみたいな態度な気がする。何でもかんでも柔軟に意見を取り入れればオトナ、という訳では決してない。

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