ビフィダス牧場

サークルyogurt、ビフィダスの活動報告場です

オススメ

●ユペチカ『サトコとナダ』書店で表紙買いしたが面白い。

アメリカに留学した日本人大学生サトコ。ルームシェア先で出てきたのは真っ黒いフードで目元以外を隠したムスリム女性だった。その子はサウジアラビア人留学生、ナダさん。しかし彼女はめっちゃ明るい美人さんで、お堅そうとか怖そうとか、あるいはかわいそうとかいった印象を払拭する如くに、ナダさんは人生を楽しみ、自分とか文化習俗に関する価値観を持ちながら生きていて、二人は交流を深めていく。そういうお話だ。
異文化交流だ。日本、サウジアラビア、そして舞台たるアメリカ、この三つの価値観が不思議な仕方で共存していく。
面白いよ!ネットでも読めます。http://sai-zen-sen.jp/comics/twi4/SATOKOandNADA/
==
●『第3のギデオン』。6巻の表紙を書店店頭で見かけないまま時間を過ごしすぎてしまった。
書店に出かけたついでにようやく探し出して買った。
本当ドチャクソ面白い。
出てくる人物が、葛藤する!
葛藤しない奴は大体みんなすぐ扇動されてすぐ短絡的な暴力を振るい、何の罪も無い兵隊とかを殺したりする。
葛藤!
葛藤というと僕らは「うじうじ悩むだけで何もしない」とか「あっちにもこっちにも正義があり…ジャスティス…世界とは…」みたいなことだと先入観で判断してどうしようもない。それは日和見主義とか相対主義とかいうもので、だいたい腰抜けの言い訳に過ぎないことが証明されている。
葛藤とは何か。机に座って辛気臭い顔をすることとは天と地の違いがある。目の前で剣を振りかざす相手がいる。聞く耳も持ちやしない!このままだと殺される。戦って殺すことも出来るが、その相手こそが、守らなきゃいけない当の者だったら?主人公ギデオンや国王ルイはそういう戦場の最先端で、武器を持たずに愛の力で戦う真の男なのだ。
そして悲しき破壊者ジョルジュ。彼もまた、自分が破壊の矛先を向けるものこそ自分を真に救うものだと気づいている。そうでありながら彼は破壊の歩みを止めない。ジョルジュも真の男であり愛の人なのだ。悲劇だ。
==
●出版社のパーティーに行って来ました。
先日、作家デビューして初めて、出版社主催のパーティーに招かれることになりました。
前々から作家先生方がトゥイートで、「出版社パーリーでビンゴ大会で景品を貰った」とか「水族館のフロアを貸しきって出版社パーリーをした」とか「水上クルーズで出版社パーリーした」とかそういう報告を写真付きでされているのを見かけるたび、私は結構歯噛みをして悔しがっていた。
こういう悔しさというのは良くない。「混じりたいものに混じれない、チクショウ!」というのは、「混じりたい母体のことを勝手に恨んでいる」「承認して欲しい相手を先んじて憎悪している」という物凄く厄介な状態だからだ。ここにハマってしまうと幸福が得られない。母体に近寄っても離れても苦しむことになるからだ
如何せん、去年の段階で僕は「来年はこういうパーリーに参加したいな」と強く意志した。そしたら参加できたので、良かった。
パーリー会場はでっかい広間で、名札をつけた沢山の作家先生や編集さんやスタッフの皆さんがワラワラ入って、お酒を次いで、皿を抱えてご飯を食べながら会話をするのである。
その際に感じたこと、分かったことを、この機会にまとめておきます。

・人は皆孤独
僕達は基本的には孤独なのだということが物凄く分かった。
孤独!つまり、僕らは知り合いとかが居ない限りは大体の場合、一人で、お皿かお酒かお箸を持って、フロアをウロウロするハメになるのだ。編集さんに会えれば、編集さんが気を回してくれで誰かに引き合わせてくれるかもしれない。そんな感じなのだ。

・自分から話しかけに行かなければ会話はできない
これもあらゆる人間関係における真理なのだが、ついついためらいがちになってしまう。
この躊躇に絡むのは大体次の二つの要素だと思う。
即ち、A・自分に対する自信の無さと、B・相手に対する無関心、この二つだ。
感謝すべきことに、漫画家はに関しては一定以上クリアしている所がある。生み出した作品と、日々の努力や労苦が、「会話の基盤」として使えるからだ。それでも「相手は自分を知らないんだから声掛けても迷惑では」という萎縮は生じる。
真に厄介な問題はだ。「お名前は知ってるけど作品のことをよく知らない」とか「作品は知ってるのにお名前と結びついていない」(これすげえもったいないと思う。よくあることだ。前に失楽天で、陰毛が濃いことを気にしておセッセを拒んできた彼女とようやくおセッセする話があってめっちゃ覚えてたのに作者先生の名前を覚えてなかったのだ。内藤らぶか先生だ。)とか、あと「昔の作品は知ってるけど最近の作品のことを知らない」とか、そういうことが結構あるからだ。
これ、恐ろしく痛感したので、今後はしっかり作品に関心を持って接すること、そして最低でもエロ漫画雑誌とかでおシコり申した作品の作家名は絶対に記憶しておくことを、心に決めた。

・会話って何じゃろう
会話というのはよくわからん。A・当たり障りの無い話と、B・踏み込んだ話、どっちがいいとかどっちをどう使うかというの、教科書とかにも載ってないのにみんな日常生活とか合コンとかキャバクラとかで平気でこのスキルを要求するし、おかげですぐ事故が起きてこっちばっかり後遺症が残ったりするのだから、なんか教習所とか欲しいものだ。
まあ想像だが…
A・当たり障りの無い会話=話し方から相手の社会常識、対人常識、そして人柄を知り、相手をしていて心地よいかどうか・信頼できるかどうか・共通の話題を持てるかどうかを判断する段階
B・踏み込んだ会話=相手が一定以上信頼できる/話題を共有できると分かってから、自分と相手の内奥の趣味趣向や考え方を披露し合い、交換して、互いの精神生活を向上させる営み
多分こんな感じの役割分担になっているのだと思う。スマブラって、ダメージを与えて下準備吹き飛ばして気持ちいい、みたいな役割分担があるじゃないですか。あれと同じなのではないかと思う。
…ということ、自分で整理してみて、今、ようやく分かった。なんてこった。

その上で、会話を構成するファクターはこんな感じになるんじゃないだろうか。
1・挨拶
2・自己紹介
3・共通の話題を見つける
4・その話題に対する各人のコミットの仕方を引き出し、互いに有益であるようにじっくり交換する
大体こんなものになる(たぶん合ってる)。
ありがたいことに作家の飲み会となると、3が大体「漫画」で確定するし、4も「漫画の方法論」で確定するのでここんところ苦しさがない。
そうすると、例えば…
ケース1:こっちが知ってる先生を見かけたら
挨拶して、自己紹介して、「好きです」って言って、過去の単行本の好きな話であるとか最近の作品の話をしたりして、気になってる点だとか創作のコツだとかいった話を聞いてみてウンウンフムフム頷いたりする、
見たいな感じになるし、
ケース2:互いに知らない同士であったら
挨拶して、自己紹介して、どういう作品を描いてるのかを聞いてスマッホで調べたりして、創作上の労苦だとか方法論だとかの話を互いにして情報交換してウンウンフムフム頷いたりする、
そういう行程を踏まえれば、とりあえず間違いはないのではないかと考える。
…だが、このやり方だと多分僕らは早々に行き詰って疲弊してしまうような気がする。
というのも、一回の会話なら成立しても、二回目三回目となるとネタが被ったり話題がなくなったりしそうじゃありませんか。
多分それを回避するには「常に新しく勉強していること」が必要で、じゃあそれは具体的にどういう振る舞いなのかというと、新しい作品とか漫画とかアニメとかゲームをその都度摂取し、解釈し、吸収し、自覚的に言葉に紡いで貯めていくことなのではないかと思う
良き会話をするとは良く生きることなのではあるまいか…

パーリーの話に戻しますに、

・人は皆苦労している
これを知れたことは本当に良かった。
基本、会場にいらっしゃるのは僕より実力も才気もある先生ばかりだ。絵とかめちゃ上手いのだ。
そんな先生方が、皆様やはり苦労されている。
そういう話を聞くと、「何だかんだで僕らは互いに苦労しながら同じ世界を支える者同士なのだ」と、実感する。
「混じりたいチクショウ!」とか「承認されたいチクショウ!」みたいな歪んだ自意識がじんわり癒される、不思議な空間だった。
そういう意味で、あの場でお話できたことは本当に有意義だった。

前を向いてがんばろう、と思った。

 s99
10月末発売号エンジェル倶楽部の原稿(↑今作のヒロイン、川瀬まつりちゃんだよ)を入稿して一息つけるので、
この数日あったことや読んだ漫画について備忘録がてらメモンしておきます。

『サーカスの娘 オルガ』。上野の明正堂書店にて、たまたま発売日だったらしく平積みされていたので購入。
物凄く面白い。面白い!!
舞台はロシア。寒村からサーカス団に引き渡された少女オルガの物語だ。ゆっくり読ませてグワグワと面白い。
で、フラリと立ち寄った上野動物園園内で読んでボロ泣きした。
感情だとか山場だとかを、大げさでなく、押し付けがましくなく、でも読者にガンと打ち出す仕方というものについて考えさせられている。
なんかもっとずっと、「よくあるマンガっぽいこと」から離れた表現が許される気がする。
==
ウメハラマンガが面白い。
https://web-ace.jp/youngaceup/contents/1000032/
↑ヤングエースUP(ネットで読める奴ね)の作品ページ。かなりバックナンバーを遡れる。
最近、単行本7巻も出た。

格闘ゲームが物凄く強くてあちこちで活躍されているウメハラというゲーマーの少年時代を描いた伝記風物語なのだが、
ここに出てくるライバル達のキャラクターが恐ろしく立っている。水道止めてまでゲームに金を費やし勝負に人生を賭けていて圧倒的な練習量でウメハラをボコボコにするクラハシとか、なんかすごいオーラを持ってて暴君不良っぽくてヘラヘラしながらも恐ろしく高度な対戦理論を持っててウメハラをボコボコにするオゴウとか、もう立ちに立っている。ウメハラがクソみたいに強い上に、クラハシもオゴウもウメハラをボコボコにするので、つまりみんなクッソ強いのだ。
で、しかもこのクラハシさんやオゴウさんは実在しているプレイヤーなのだ。
「じゃあきっと、マンガ化するにあたって当時の思い出や出来事を脚色して、キャラとかちょっと盛って、描いてるんじゃないの?」とか、読んでるこっちは思ってしまう。
が、先日、この主人公ウメハラと、クラハシ、そしてオゴウが実際にゲームで対戦して決着をつけるという企画があった。

これだ。
生で見て僕は打ち震えて、泣いた。
物凄い面白かった。
しかもキャラが本当すごいんだ!キャラというのはつまりは三者の行動哲学みたいなものだ。それがバリバリに立っていて、実況している周囲が絶叫し感動し喚き叫ぶのだ。
すごいよ。
リアルからマンガが飛び出してきたと思ったら、マンガからリアルが更に飛び出してきた。
ウメハラマンガもクッソ面白い。強くなればなるほど対戦相手が減っていくというジレンマを抱えたクラハシが、ふとウメハラ達と心を通じ合わせる瞬間のようなものがあって、読んでて胸が熱くなる。
==
先日、同人即売会イベントの為に人形町へ行った。その時のこと。
前日が大型イベントだったのだが仕事の都合で行けず、気まずい思いをしていた。
で、このオンリーイベントにて、お会いしたかった方々にご挨拶に伺ったのだ。
その時は熱っぽかったり喉の奥で変な味がしたり散発的に頭痛がしたりと体調不良気味で、
しかも原稿の進捗の悪さなどがあり兎に角具合が悪かった。
しかも心に余裕が無いせいで(←言い訳)、コミケで買わせていただいた作品のご感想とかも言えずじまいになっていたのだ。
だから、ウェーイとご挨拶して新刊を買わせて頂いた後、私は聞かれもしないのに言い訳じみたことを半笑いで言い始めた。
いや、近頃本当忙しくて、すんません。しかもなんか近頃頭痛くて。ハハ
そうすると皆さん笑顔で心配して下さるのだ。
大丈夫ですか!?
同情を買うのは中々気分の良いことだ。
で、「大丈夫です、ではまた!」とスペースを立ち去ったその瞬間から、身体に異変が起きた。
頭痛が激しくなる。眩暈がし、悪寒までしてくる。転がり落ちるように体調が悪化した。
ああ、他人に自分の病気アピールだの忙しいアピールだのをするもんじゃない。なんてみっともないんだろう。言い訳がましいし、なんか負い目を自ら白状して弁解しているみたいでアホみたいだ。
と、めちゃくちゃ後悔した。
考えてみれば私は漫画とか作品を描くことで人に認知され、人の繋がりを得て、作家さんとかレイヤーさんとかと挨拶できるようになった身だ。
作品を作って人を喜ばせるというプラスの努力によって人間関係を勝ち得てきたのだ。
ならば、やはりプラスの努力の中で人と繋がっていたい。喜ばせあう関係の中にいたい。
そう思って、言い訳じみた体調不良アッピルや忙しいアッピルを金輪際しないと天に誓った。
そしたら体調もスーッと良くなってきて、数日前から生じていた頭痛も消えたのだった。

人間関係に対してウソをつかない、というのは本当に大切なことなんじゃないかと今更思う。
で、この「ウソをつかない」というのは「思ったことは悪口だろうが何だろうが何でも言う、包み隠さず言うのが誠実!」とかそういうことではなく、「相手に関心を持って接する」ということなのではないかと思う。「実は関心が無いのに関心を持ってるフリして近づき、取り繕う」というのが、一番厄介なウソなのではないか、などと思う。

面白い漫画の情報というのはインターネットの海に宣伝バナーとかトゥイッタートレンドとかの形でそこらじゅうに落ちているが、
「いざ読もう」という風に食指が伸びるには、宣伝されているということ以上に、何かしらの「縁」みたいなものが必要ということがある。
そして、この「読むに足る縁のある作品」となると現実にはギョッとするほど減るというのが実状なのじゃあなかろうか。
そして、この縁というのを確保する仕方というのが限られまくっているからこそ、
バナー広告とかでの作品紹介は、お尻の穴に焼けたなんかを突っ込むとか婆さんを薬品で溶かすとかそういう感じの精神に電撃を与えてくるものが増えるのではないかと思う。
さて、僕は精神が老化してしまってこの「縁」の感度がへずれまくり、このままじゃマズいと感じたので、知り合いの作家先生から薦められた漫画は面白そうだったら速攻で買って読むということを心がけている。
で、ある漫画がものすごく面白かったのだが、その後この作品のウェブ宣伝バナー広告を見たらなんか全然パッとしなかったので、ここで紹介することにしました。

『第3のギデオン』。
スペリオール誌で掲載されている。(というか作品名で検索した時に「掲載誌」の情報が全然出てこないのすっげえアレな気がするので、雑誌社の公式HPとかAmazon紹介文とかもっとしっかりして欲しいとか思った。)
一巻の表紙。何やら意味ありげな仮面の美男子だが、こいつは主人公じゃない。ジョルジュという、主人公の友人だ。主人公ギデオンさんは2巻の表紙だ。なんか地味だから二巻に回されちゃったようにも思えるが、振り返ればこの表紙の順番は物語の内容にキッチリ関わってることにも受け取られ得るので、判断がつかない。

舞台はフランス革命前夜だ。『ナポレオン~獅子の時代』を読んでいる僕はフランスの歴史にそうとう詳しくなっているので、このあとの主人公達の運命に思いをはせるとしんみりする。
この作品、まだ5巻しか出てないくせに本屋さんの書棚に揃っていることがなかなか無くて苦しい思いをしたのだが、必死に行脚して買いそろえて読んだ。
すごく面白い。
これは愛の物語だ。
愛!
愛ってのは、つまりは動機が真正ということだ。
出てくる人間達がみんな、光と影を持ち、深い深い愛に基づいて行動をする。その都度の行動が愛に基づいたものということが僕らに伝わるから、僕らは読んでいてその人物達の光にも影にもしみじみと共感する訳なのだ。
我らが主人公ギデオンは平民(王族・貴族に次いで平民は第3の地位だから第3のギデオンなのね)で、インテリだが糊口を凌ぐ為にエロ小説を書いてて、議員になってフランスを変えたいと思っている。妻に別れられて男手一つで一人娘を育てた。彼は家族作りに失敗してるし、自分の心の弱さや罪を知っている。人間の罪のようなものを知っているからこその人間への愛があり、目の前の人間に対してのうわべじゃない共感がある。ギデオンは様々な出会いに巻き込まれ、窮地を助けてくれた旧友ジョルジュは王政打倒のテロリストであることが分かっちゃうし、しかもそのくせ主人公は王族とか国王ルイ16世とかマリーアントワネットとかとも仲良くなっちゃうので、つまり行く先々で衝突や抗争や陰謀の最前線に立つことになる。ギデオンはその都度、命の危機に晒されるし剣とか銃とか拷問道具とかを突きつけられまくるのだが、それでも血を流さない解決のために必死に交渉しようとする。インテリが暴力抗争の最前線で!言葉と説得で戦う!その時に説かれる人間愛は、甘ったるいくらいの人間愛にも思われそうなものなのに、これが上滑りせずに読者の胸を打つのだ。フランス革命というのはメチャクチャに進行して理想も理念も七転八倒グッチョグチョになる舞台なだけに、ギデオンの人間愛がどこに行き着くのか、ハラハラする。
ギデオンと対立することになる旧友ジョルジュ。こいつは貴族かつテロリストという厄介な奴だが、その根底には愛と悲しみがある、というか愛を裏切られた経験がある。満たされない愛が弁済を求めるときに、破壊に向かうというのはさもありなんという話だ。しかし、この愛の悲しみが多くの虐げられた人間を惹きつけもするのだ。しかも、行く先々で衝突することになるギデオンとの間には、やはりちょくちょくと真正の友情が垣間見えて泣かせる。
ルイ16世も出てくる。フランス国王だ。こいつは鍛冶が趣味ゆえにハンマーを持って戦うパワーファイターで、ものすごく強いし、紳士で優しいし、父だし、そして悩む人だ。ルイ16世は嘘をつけないという性質を持っている。尚且つ、目の前の人間が嘘を言っているかどうかを見抜ける力を持っている。「嘘を見抜ける」という属性と「優しい」という性格とはものすごく相容れない。だからルイ16世は苦しむ。泣かせる。メチャかっこいいぞ。夫婦愛・家族愛に悩む者同士であるギデオンとルイ16世には不思議な交流が生じ、愛の問答を交換したりしてすっげえ面白いから読んで。
マリー・アントワネットも出てくる。アホっぽしスケベな感じに描かれているし、国民の不満の矛先にされて、年がら年中叩かれてエロ小説の題材とかにもされちゃってる子なんだが、こいつも一筋縄では行かない。根底にはシンプルに根の深い人間愛があり、愛に由来した頭のよさとガッツがあり、かっこいい奴だ。
ロベスピエールも出てくる。こいつも悲しい奴だ。すごい人のいいインテリなのだが、その根底には父親への愛が裏切られた経験があり、それがやがて父性そのもの(=国民の父というイメージを担い続ける国王)への破壊へと転化していく。しかし父性への憎悪には、虐げられた子供への深い同情があるものだから、これもまた切ないのだ。
登場人物がいちいちかわいい。サンジュストはナメたジャリでありながらちょっと必死で可愛いところがあって、それがギデオンにとっては弟のように思えてしまう。ルイ16世の弟は結構小ざかしい奴でギデオンを拷問したりした悪い奴なんだが、これもいざとなると味方になったり、愛があったりして、一筋縄でいかない。ギデオンの目の前に出てくる人物は、不思議な二面性を常に携え続ける。
舞台そのものも、常に二面性というか矛盾を携え続ける。貴族とかはメチャ横暴で平民は困窮に喘いでいる。しかし、平民は貧乏なので他人に愛を施す余力なんか無いし、無教養なので説得や弁舌が通じないし暴力ばっか振るってくる。教育を受けた貴族の方が、金と教養に裏打ちされた愛と施しがあり理知があるのだ。しかし、その愛がまた平民にとっては高慢に映る。これは現代にも通じるなんかを感じる。そしてこの厄介な世界を、ギデオンは揉みくちゃにされながら泳ぎ続けるのだ。
この泳ぎがフニャフニャしたものに見えない理由があるとすれば、それはギデオンには強い人間愛があるからで、つまり真正な動機があるということだ。ギデオンの戦いを見届けたい。
・・・
4巻になって、ちょっと共感不能の悪い奴が出てきたり陰謀が渦巻いたりして展開が胸糞悪くなって「ちょっと読むの嫌だな」とか思ったのだが5巻は面白かったし、多分6巻はもっと面白いと思う。早く続きが読みたいのだ。面白いよ!
・・・

しかし、こういう作品が、まだ5巻しか出てないくせに、書店に揃っていないというのはものすごく切ないことだ。でも面白いし多分話題になりやすい作品の気がする。

僕はマンガを殆ど読まない人間だが好きな漫画は何度も何度も読んで『鉄鍋のジャンR』とかは年単位で同じ本を便所に持ち込んで延々と読んでいた。痔になるまで読む。
で、最近のマンガで、便所に持ち込んで延々と読んでいた作品はこれだ。
紹介したいので紹介します。

掲載紙であったジャンプGIGAが終わったついでに終わったので、一巻で完結している。
一巻で完結しているマンガというと人はしばしば「打ち切られた」「継続できなかったのはにんきがないからで、にんきがないのはおもしろくないからで、だからわるいのだ」などと推測して無意識に見下すのだが、『バオー来訪者』だって『機動戦士ガンダム』だって打ち切りだし『惑星をつぐ者』とかクッソ面白いから読んでね!
で、この作品。クッソ面白い。
試し読みもある。スイッと読めて濃厚でチョー面白い。
http://plus.shonenjump.com/rensai_detail.html?item_cd=SHSA_JP02PLUS00005864_57
ぎなた式。こういう話だ。
主人公は月嵩(ツキタカ)クンという蒼穹紅蓮隊のボスみたいな名前の高校生で、スポーツセンス万能で何でもすぐ上手くなるのにあんま執着をもてずにすぐ辞めてしまう、ある種の空虚を抱えたヤンキーだ。(「まんべんなくデキる奴がまんべんなくハマれない」というのはありそうな話だ。)そいつが、國田さん(ヒロインだ)とか西條(流川だ)とかと出会い、ナギナタという競技に出会う話、なのだが、
その主人公、第一話にてナギナタを見よう見真似でやってヒロインにあしらわれた折に、西條に「お前はナギナタに向いていない」と言われる。
スポーツ万能の主人公が「向いていない」と言われることが、主人公にとって一つの心の引っかかりになる。
これ、すごい面白いと思う。
僕らはアホなので「当人の向いていることに若いうちから努力を集中することで、効率よく社会で認められて成功を得て人生の勝利者になる」というビジョンを理想だとかクレバーだとか思っている。少年漫画でも、「周囲からダメだと思われてる主人公が一つの適性を見出されることで爆発的な力を得て活躍する」的なモチーフはわりと分かり易いし燃えそうだ。
それに対し、この話は主人公が「自分に向いていない」ことを、やる、のだ。
なんか凄く面白い、特有の精神性を感じるでしょう。
そして実際その期待は裏切られない。二話も三話も最終話である四話も、クッソ面白い。
主人公がいい。精神的タフネスと明るさがある主人公は大好きだ。明るいけど道化じゃないのがいい。
ヒロインがいい。ほんわかしているのに根幹のシリアスさと独特の影があるの、1話を試し読みされた皆様にはおわかりであろう。ほんわかしているけど道化じゃないのがいい。
西條がいい。メガネだが、こいつもまたメガネの裏に悲しい影がある。メガネだけど道化じゃない。
みんな真面目に、人生にぶつかり、人生を背負いながら生きている。わしゃ涙が出る。
絵はすごい上手い。
が、絵の上手さより何より、まず描写がクッソ丁寧だ。ものすごく丁寧なマンガというのは一コマ一コマに読み流せない面白みが出てきて多読に耐える。読み返しに耐えるというのはこの時代には軽視されがちだが実際は最高級の特性だと思う。本が宝になる瞬間はそれだからだ。
本を読み終えると、なんか美味しいハンバーガーを食べた時のような満足感と多幸感に包まれる。

年末に出た本だけど、本屋さんの書棚にはまだギリギリあると信じたい。単巻作品の厄介なところは本屋で目立たないということと本屋からすぐ消えるということだが、まだギリギリあると思うから明日とか帰りがけに本屋さん立ち寄って探してみてほしい。ジャンプコミックスの棚のどっかにある。

早くジャンプ本誌とかに移籍して続きを描いてほしいという想いがあるが、一方、「週刊連載だと毎話19ページごとに見せ場を用意しなきゃいけないから話の組み立て方が月刊と全然違うんだろうなあ、週刊連載と月刊連載って、物語を組み立てる方法論が全然違うんだろうなあ」とか余計な推測をしてしまう。
 

札幌国際まんがフェスのレポートの続きです。
札幌には文教堂というシステムが整備されていて、ちょろっと歩くと文教堂で本を購入することが出来る。便利なのだ。
で、買って読んだ本。
・林修先生の本は面白い

ポップに「本当に受験は必要か?」と書いてあったのを見た時、「逆だろう、受験不要論じゃないんだから」とちょっと思った。
実際は「受験ってのは、10代の一時期を、一つの目標に向けて努力し、それを形に残せる贅沢なシステムで、嫌々惰性でやるくらいならしっかりやった方が後々人生にとっていい経験になる」という、受験とか学生とか勉強とかの意味を問い直す本だ。
で、林先生の著作はスタンスがすごくはっきりしていて、読んでて気分が良くなる。
何がいいのかというと、
林先生は「責任の取れないことは言わない」ことを徹底していて、
即ち「扇動者にならない」ということを徹底している。
よく学者とかインテリ層とかはテレビとか新書とかで口を開かせた途端に、市民を先導しよう的なオーラをぷんぷん放って嫌なものなのだが、これが無いのですごくサワヤカなのだ。
振り返るに、予備校というのは勉強をやりたい奴がやる為の場所だし、勉強ってのは出来る奴は自分でガンガンやる。そういう意味で、林先生が相手にする生徒達は基本的に責任能力が高い。そんな中で林先生自身も、生徒との応答の中で自分の責任能力を高めようと努力する。そういう、自己責任で互いを高めあう環境に身をおき続けているところから、こういう「責任を取れないことは言わない」的な態度が涵養されているのではないかな、などと考えてしまう。
巻末に、灘だかの教師との対談が入っているのだが、この灘の教師が割と扇動者っぽい感じなのに対し、林先生が笑顔で自分の引いたラインを守っているのが、読んでて微笑ましかった。
・擬似男女のお話

「店員オススメ」みたいなポップがあって、気になったので買った。気になった本は即決で買えと古事記にある。
インスタントなフェチズム系の話だったら風呂釜にくべてやるとか思ったが(過去に私が表紙買いでぶち当たった本は全部こういう系統で、それ以来表紙買いアレルギーになってしまっていた)、とんでもない、大変丁寧な本で面白かった。
三十路の独身OLである主人公が、夜の公園で一人下手糞にサッカーの練習に励む美形の少年を保護するところから始まる、二人が互いの欠けたなんかを補い合う話だ。
第一話にある「体温を計る習慣」というのを考えたのは本当凄いと思う。
男の子のリアクションがいい。いちいち、読者の心理をトレースするかのような反応をする。プール回にて主人公が水着着ないでプールサイドに来た時の男の子の顔とリアクションを見た時は読んでて「うひゃあ」ってなった。
前々から、女が年増で男が子供というペアの関係というものに関してはあれこれ考えているのだが、ちょっとさじ加減を間違えるだけで関係が一気に重たいものになるので、このさじ加減をコントロールしている作品ってすごいなあって思う。
あと、この主人公の三十路にはクソメガネの元カレがいて、レギュラーだ。このクソメガネの振る舞いが、いかにも臆病で計画的でオズオズしながらズケズケしていて、まるで自分を見ているようで読みながらゲロ吐いた。このクソメガネもまた現代の男性性の象徴だ。

・売野機子
やがて大丸をウロウロしながら、三省堂でまた本を買った。
ふと本棚に表紙が見えるように陳列されていた少女漫画風の作品を目にし、若干興味を引かれて、気になった本は即決で買えと古事記にあることを思い出して冒険して手に取ったのだ。
「少女マンガ的なトキメキ描写を、後学の為に読んでおこう」と思った訳だ。
クリスマスプレゼントなんていらない (バーズコミックス)
売野 機子
幻冬舎コミックスゲントウシャ
2016-12-24

 0485ffa3eb608971feb031fd8610c5fa
表紙を見ると、そんなトキメキがありそうな本に見える。
とんでもない本だった。
一読して、「俺は何て本を買ったんだ」と震えた。
二読したら今度は勝手に涙がボロボロこぼれた。
この本は短編を集めた作品集だ。
「パーフェクトケーキ」。高校生カップルの愛を描く少女マンガ、なのだが、一読して脳天を殴られて、少女マンガとは何なのかということが一気に謎になった。
「リラの消えた森で」。すごいタイトルだ。誰かが死ぬ話でもないのに。これは凄い話だった。3人の女の子が同棲生活をしていて云々という話だが、このような紹介ではこの作品のことを上手く説明できない。だが兎に角すごい好きな話だ。リラがかわいい。
兎に角、この本を読んで、私は泣きながら家に帰り、
「漫画家になりたい」と本当に思った
漫画家というのは、尊い、尊い仕事だ。
なんて尊い仕事だろう。
ちなみに、表紙の女の子の話は、作中にも目次にも無かった。これも、読み終わってから気づいて、驚いた。でもどこかにある。

で、同じ作者の同時期に出た新刊もamazonでポチって買った。

これも凄かった。
本にまた殴られた。
「ゆみのたましい」。読んで、とうとう嗚咽をこらえきれなくなって声を出して泣き喚いた。すごい。読み切りでこれなのだ。
「青間飛行」。これも凄い。メガネデブがすごい。LULUが可愛い。メガネデブがすごい。
何度も何度も読み返して何度も何度も泣いた。
ちなみにこの表紙の女の子も、本編には全く出てこない。

読み切りとは、体内で練成した魔剣を口から引き抜いて読者に打ち下ろすことだ。
僕は定期的にエンジェル倶楽部誌にて読み切り作品を掲載させて頂いているが、読み切りを描かせて頂けるというのは本当尊いことなのだ、と再認識した。
一回一回の機会を、大切にしたい。
漫画家というのは尊い仕事だ。
私は無限に漫画を書き続けていたい、と思った。

オススメです。
ちなみに、作者である売野機子先生の新連載が、ついこないだから始まった。
コミックバーズ 2017年 04 月号 [雑誌]
幻冬舎コミックスゲントウシャ
2017-02-28

「ルポルタージュ」という漫画だ。
これも、凄かった。ラブストーリーということなのだが、悪魔的なものを感じる。

・作品を、薦めたい
札幌で買った漫画の大半は、平積みされていた本で、しかも「このマンガが凄い」的なもので取り上げられていた作品だ。そこで取り上げられたから、本屋さんも薦め易くなったのだろうし、我々も手に取り易くなったのだろう。
一方、そういう意味では何の宣伝文句も飾られてなかった売野機子の作品を私はたまたま表紙買いして、一撃で自分の創作性を変容させられてしまう経験をした。
・・・
売野機子先生の両作品、本当に凄いのだが、厄介なことに両作品とも、紹介することが凄まじく難しい。
内容やあらすじを紹介しても、作品の魅力を全然紹介できた気になれないのだ。
オモシロイトコロを掻い摘んでも多分相手には伝わらない。
そもそもオモシロイトコロが、口で喋れない。
面白い所は話じゃなくて、絵かもしれない。話と絵の組み合わせかもしれない。絵じゃなくてコマかもしれない。コマと絵の絡み合いかもしれない。つまりマンガだ。マンガというのはそういうものなのだ(無論、歌を曲と歌詞に分けられるように、マンガを絵とストーリーに分けることは出来るのだろうし、分けて紹介できるほうが「紹介しやすくて便利」ではあるのだが、それはあくまで便利というだけの話だ。マンガという表現をフルで使った結果、絵とストーリーがぐちゃぐちゃに絡み合って引き剥がせない、というものになることはある)。
電子には若干の試し読みもあるが、試し読みで興味を引かせるような内容の作品ではそもそもない。
SNSにスクショを上げて、4P分のスクショでなんかネタっぽくあげつらえて皆でワイワイできたり4Pでコンパクトに人を感動させられて拡散されるようにも出来ていない。
だが、面白い。
この世にはこういう仕方で存在する作品もあるのだ。
・・・
こういう作品を見ると、私の心は引き裂かれる。
「多くの人にまず知ってもらわなきゃ話にならない、知名度を上げねば買われないのだ、今を生きる為には全話公開するのがクレバーだ。炎上商法してでも商品を拡散すべきであり、マーケティング的にも正解ですよ!」という気持ちはある。
だが、「本を買った人が一番最初にその作品と出会い、その作品世界を分け入っていく、というあり方を大切にしたい」という気持ちが、抗いがたく存在する。自作品にだってそう感じる。
しかも、「手早く知ってもらうことに全く向かないけど、読むとすごい作品」というのが現に存在する。
そういう作品を、私は応援したい。こんな作品があるということを世界に知らしめたい。

ので、私は今後、なんか面白いものやオススメしたいものがあったらこのブログで紹介することにした。
「オススメ」というカテゴリを設けたので、今後はここにちょくちょくと面白かったものを紹介していきます。


↑このページのトップヘ